 明治8年2月、旧郭内の小路、桜町、錦町、常磐町、紅梅町、春日町と改称。 4月24日、県令藤村紫朗、内務卿大久保利通宛「甲府城外郭土居堀処分方之儀ニ付伺」(要旨)
旧甲府城外郭の濠、土手は既に陸軍省に引き渡したところだが、次第に両岸が崩れ、ゴミや「悪水」がたまり、人民の健康を害するようになっている。 さらに、払い下げを受けた貫属や旧官宅跡地等にも県庁、病院、学校、製糸場のほか住宅も出来てきており、濠に架かった橋の往来も繁くなっている。 市中の用水も北荒川から濠に樋を架けて郭内を通している。 橋や樋の修繕費も少なくなく、支障も多い。濠を埋め立て土手をならす件については明治六年に陸軍省に願い出て聞き届けられているところだ。 いよいよ二の堀、三の堀と称しているところを埋め立てにかかるにあたり、市中の者たちの協力は不可欠であるし、経費も莫大なものになろうから、内務省の「達」の湖海沼地埋め立ての例と同様、特別に「無代価」で払い下げを願いたいがいかがか。 9年10月、区制再改正。 7年以来、村の合併が進んだ実情に即させることと、区数を八十から三十四に減らして区長給与を節約しようとするねらい。区番号も郡別を廃し、県内を通し番号制にした。 括弧内は旧小路名と町名改称の年月。
一区山梨郡(旧山梨郡第一、二区)の町村
泉(明治9年7月・旧西青沼町)、若松(明治9年・旧西一条町)、水門(旧北郭内先手小路・9年5月)、富士見(旧北郭内裏先手小路・同)、朝日(旧北郭内新先手小路・同)、橘(旧北郭内橘小路・同)、日向(旧北郭内森下小路・同)、花園(旧北郭内御花畑)、錦(旧南郭内大手小路・8年2月)、常磐(旧南郭内松原小路・同)、春日(旧南郭内中殿町・同)、桜(旧南郭内土手小路・同)、紅梅(旧南郭内山田町筋新道・同)、弥生(旧北郭内御花畑)、境、竪近習、柳、緑、相生(明治9年・旧片羽町)、桶屋、鍛冶、太田(明治9年7月・旧一蓮寺領)、富士川(明治9年・旧長禅寺領)、山田、魚、横近習、八日、三日、穴山、金手、城屋、上一条、下一条、和田平、上連雀、下連雀
四区山梨郡(旧山梨郡第三、五、六区)の町村 元連雀、元紺屋、新紺屋、元城屋、細工、大工、愛宕、広庭、横田、元柳、竪、袋、元穴山、新柳(明治5年)、元三日、相川、元緑、久保、白木、御崎、横沢、畳、和田、小松、塚原、上積翠寺、下積翠寺、塩部、古府中、岩窪、飯沼、大宮、千塚、能泉、千代田
二区山梨郡(省略)
明治5年の区画整理から消えている町名
旧山梨郡第一区郭外の分−百石町、田町、穴切町、市中の分−新青沼町
旧山梨郡第二区郭外の分−二十人町、代官町、佐渡町、深町、三吉町、飯田新町
※明治8年1月28日の「布達」により山梨郡第四区の遠光寺・朝気・東青沼・蔵田の各村が合併して稲門村となり、代官町、佐渡町、深町、三吉町はここに合併された。
※第五区の上飯田・西飯沼各村は合併して飯沼村となり、百石町、田町、穴切町、新青沼町、二十人町、飯田新町がここに含まれた。
明治9年からの数年で、旧甲府城南東の郭内は、東西の紅梅町、常磐町、南北の錦町、春日町、桜町の各通りに沿って、公立の施設に民間の建物が並び、新しい県都の雰囲気を醸し出していた。 後に「藤村式」と称される疑洋風建築。 錦町に旧甲府城に近い方から県庁(10年11月)、会議所、裁判所(9年3月)、徽典館(師範学校前身 9年7月)、病院(9年5月)、また、桜町と常磐町が交差する北西隅に県令邸宅(翌9年から10年)
「甲府新聞」(9年6月12日) 旧郭内の艸茫として凸凹たる道路変じて、恰も畳上たる坦路に変わる、続いて茅屋造りも変じて錬化石造りに変る。反古張りの変じてガラス張りと換る姿は倫敦、巴里の都も斯くあらんと思うばかりなり
カナダ・メソジストの宣教師イビーの印象 立派な建築群と市街地の清潔感
旧甲府城一の堀周辺、常磐町や錦町
青々とした松林、民間の建築にも緑が多く、建物と建物の間がゆったりとしている。 道行く人々も、明治四年に散髪脱刀令が出て、大方はザンギリ頭だが、高齢の者にはまだ小さな髷を結っている者もいる。 ほとんどは和服だが、女性のなりを見れば、色鮮やかな縞柄が増えている。 元三日町の利根川文助が初め東京から取り入れた人力車も大分目立ち、客の取り合いさえしている。 馬一頭立ての乗合馬車もたまに通りがかる。
桜町から柳町、八日町 「開化鍋」などと言う牛鍋屋や洋食を食べさせる店。
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