新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2008/10/22 17:42:51|甲府
城下をひとつに
明治8年2月、旧郭内の小路、桜町、錦町、常磐町、紅梅町、春日町と改称。
4月24日、県令藤村紫朗、内務卿大久保利通宛「甲府城外郭土居堀処分方之儀ニ付伺」(要旨)

 旧甲府城外郭の濠、土手は既に陸軍省に引き渡したところだが、次第に両岸が崩れ、ゴミや「悪水」がたまり、人民の健康を害するようになっている。
さらに、払い下げを受けた貫属や旧官宅跡地等にも県庁、病院、学校、製糸場のほか住宅も出来てきており、濠に架かった橋の往来も繁くなっている。
市中の用水も北荒川から濠に樋を架けて郭内を通している。
橋や樋の修繕費も少なくなく、支障も多い。濠を埋め立て土手をならす件については明治六年に陸軍省に願い出て聞き届けられているところだ。
いよいよ二の堀、三の堀と称しているところを埋め立てにかかるにあたり、市中の者たちの協力は不可欠であるし、経費も莫大なものになろうから、内務省の「達」の湖海沼地埋め立ての例と同様、特別に「無代価」で払い下げを願いたいがいかがか。

9年10月、区制再改正。
7年以来、村の合併が進んだ実情に即させることと、区数を八十から三十四に減らして区長給与を節約しようとするねらい。区番号も郡別を廃し、県内を通し番号制にした。
括弧内は旧小路名と町名改称の年月。

一区山梨郡(旧山梨郡第一、二区)の町村

泉(明治9年7月・旧西青沼町)、若松(明治9年・旧西一条町)、水門(旧北郭内先手小路・9年5月)、富士見(旧北郭内裏先手小路・同)、朝日(旧北郭内新先手小路・同)、橘(旧北郭内橘小路・同)、日向(旧北郭内森下小路・同)、花園(旧北郭内御花畑)、錦(旧南郭内大手小路・8年2月)、常磐(旧南郭内松原小路・同)、春日(旧南郭内中殿町・同)、桜(旧南郭内土手小路・同)、紅梅(旧南郭内山田町筋新道・同)、弥生(旧北郭内御花畑)、境、竪近習、柳、緑、相生(明治9年・旧片羽町)、桶屋、鍛冶、太田(明治9年7月・旧一蓮寺領)、富士川(明治9年・旧長禅寺領)、山田、魚、横近習、八日、三日、穴山、金手、城屋、上一条、下一条、和田平、上連雀、下連雀

四区山梨郡(旧山梨郡第三、五、六区)の町村
元連雀、元紺屋、新紺屋、元城屋、細工、大工、愛宕、広庭、横田、元柳、竪、袋、元穴山、新柳(明治5年)、元三日、相川、元緑、久保、白木、御崎、横沢、畳、和田、小松、塚原、上積翠寺、下積翠寺、塩部、古府中、岩窪、飯沼、大宮、千塚、能泉、千代田

二区山梨郡(省略)

明治5年の区画整理から消えている町名

旧山梨郡第一区郭外の分−百石町、田町、穴切町、市中の分−新青沼町

旧山梨郡第二区郭外の分−二十人町、代官町、佐渡町、深町、三吉町、飯田新町

※明治8年1月28日の「布達」により山梨郡第四区の遠光寺・朝気・東青沼・蔵田の各村が合併して稲門村となり、代官町、佐渡町、深町、三吉町はここに合併された。

※第五区の上飯田・西飯沼各村は合併して飯沼村となり、百石町、田町、穴切町、新青沼町、二十人町、飯田新町がここに含まれた。

 明治9年からの数年で、旧甲府城南東の郭内は、東西の紅梅町、常磐町、南北の錦町、春日町、桜町の各通りに沿って、公立の施設に民間の建物が並び、新しい県都の雰囲気を醸し出していた。
後に「藤村式」と称される疑洋風建築。
 錦町に旧甲府城に近い方から県庁(10年11月)、会議所、裁判所(9年3月)、徽典館(師範学校前身 9年7月)、病院(9年5月)、また、桜町と常磐町が交差する北西隅に県令邸宅(翌9年から10年)

「甲府新聞」(9年6月12日)
旧郭内の艸茫として凸凹たる道路変じて、恰も畳上たる坦路に変わる、続いて茅屋造りも変じて錬化石造りに変る。反古張りの変じてガラス張りと換る姿は倫敦、巴里の都も斯くあらんと思うばかりなり

カナダ・メソジストの宣教師イビーの印象
 立派な建築群と市街地の清潔感

旧甲府城一の堀周辺、常磐町や錦町

青々とした松林、民間の建築にも緑が多く、建物と建物の間がゆったりとしている。
道行く人々も、明治四年に散髪脱刀令が出て、大方はザンギリ頭だが、高齢の者にはまだ小さな髷を結っている者もいる。
ほとんどは和服だが、女性のなりを見れば、色鮮やかな縞柄が増えている。
元三日町の利根川文助が初め東京から取り入れた人力車も大分目立ち、客の取り合いさえしている。
馬一頭立ての乗合馬車もたまに通りがかる。

桜町から柳町、八日町
「開化鍋」などと言う牛鍋屋や洋食を食べさせる店。







2008/10/22 17:37:27|甲府
藤村県令、甲府城下大改造に着手
明治5年7月5日、県庁発・山梨郡第一、二区戸長宛て「達」(要旨)

 市中の道路は掃除が行き届かず、家並みが連なっているところでも、隣家との境、軒下へ塵芥を掃き寄せて置く者がいる。少しでも空き地があれば、ゴミ捨て場のようになっており、なかでも、上府中や場末の町々では屋敷周りはもちろん、道路も半ば草むらとなって見苦しいばかりでなく、いかにも地域が衰退している趣がする。特に酷暑の頃にはいやな臭いや悪病や伝染病の元となり、住民の健康を損ねかねない。すべてはだらしなさから来るのだ。
 これから道路はもちろん、小路や裏路地の隅々まで居住する者は朝夕清掃をし、貸家などの空き家を取り壊し畑地にしたところも道路は地主の責任で掃除をすること。

一 下水やどぶさらいは隣近所で申し合わせて入念に浚い、石積みや甲蓋が壊れているところは修繕し、水が滞らないようにすること。

一 貸家で空き家になっており壊れている家は家主が修繕をすること。戸締めも出来ず雨漏りがするような具合で修繕もおぼつかない家はそのままにせず、取り壊し、見苦しくないように片づけておくこと。

一 町の家屋や土蔵の傍らに尿桶を置いているところもあるが臭気が甚だしく、隣家はもちろん通行人まで不快感を催すから早々にどけるか、雨覆いなどをして、臭気が漏れないようにすること。

8月、甲府城および附属する濠、土手は陸軍省の管轄になった。

明治6年1月、政府、全国の城塁の存廃を決定。内城のみ保存と決定。
1月30日、大小切騒動の責任を取らされて土肥県令免官、藤村紫朗権令が着任。上記同様の「達」を出す。
一方、陸軍省に土手の撤去と二の堀、三の堀の埋め立てを願い出。
5月には風間伊七社長、若尾逸平副社長の甲府生糸改会社を設立させる。
8月から、甲府城追手御門をまっすぐ南に下る通り左手に山梨県勧業製糸場の建設に着手。
追手町を含め、東側の金手、南は代官町、佐渡町、太田町に至る旧市街地の道路も、すべて六間に拡張するよう「達」。

7年5月、市中正副戸長宛「市廛(てん)建築ノ制」通達。
防災・衛生の面を考慮して家並みの間に空き地を残し、できるだけ樹木を植える。洋風建築にするよう指導。
6月には、若尾逸平や名取忠文が世話役となって、市中で三、八の付く日の六斎市が開かれる。
8月、県の勧業製糸場、竣工。(写真

 敷地が東西七十間、南北七十三間、高さ三十余尺の煉瓦積みの煙突が十基林立し、百九十釜を据え、当初工女二百人を擁する洋風煉瓦造り、百近いガラス窓を備えた壮麗な工場だった。
工舎の屋上には層楼があり、西隅には水力で動く原車(もとぐるま)があり東七十間の機械の動力となっていた。
水は旧甲府城追手門前から地中に樋を通して引き、工舎西北隅の「蓮華銅盤」から噴出、八尺落下して原車を回した。水は軒下七十間を繞って市中の用水溝に流れ込んだ。
工舎中央よりやや南にさしわたし六尺、深さ四尺の大蒸気釜を設け、煉瓦で覆われていた。
これは高さ五十五尺の大煙突につながっていた。
会所、工舎、倉庫、食堂の間には数百株の花木雑卉が植えられていた。その偉容は一曜斎国輝の錦絵でもよく知られている。
当時これを越える工場は、明治5年(1972)、群馬県に設立された国営富岡製糸場だけ。

8年、旧甲府城内で勧業博覧会。

9年、甲府城内に勧業試験所が設けられる。







2008/10/22 17:32:21|甲府
城下町の解体と近代初の町村合併
明治5年1月18日、区戸制導入。
 甲府=山梨郡六区、巨摩郡四区、併せて十区。
甲府城の郭内と市中・市内(二の堀、三の堀および二の堀外縁の勤番士居住区だった区域)

  山梨郡第一区

(郭内の分)追手前、追手小路、松原小路、中小路、土手小路、厩跡地、森下小路、橘小路、桜小路、表先手小路、裏先手小路、新先手小路
 旧甲府城の南側と北西側の二の堀の内の区域だ。

(郭外の分)竪町御門前、元城屋町御門前、宮前(さき)町、納戸小路、富士川町、百石町、田町、堀江町、小砂町、八軒町、穴切町

(市中の分)境町、愛宕町、元紺屋町(旧紺屋小路)、新紺屋町、元城屋町(旧城屋小路)、元連雀町、細工町、大工町(旧番匠小路)、畳町、広小路、竪町、広庭町、横田町、元緑町(旧古川尻町)、元穴山町(旧穴山小路)、久保町(旧六方町)、元柳町(旧柳小路)、新柳町(旧増山町の一部)、白木町(旧しろかね町)、袋町、御崎町(旧手子町・旧八幡町)、元三日町(旧三日市場)、横沢町、相川町、新青沼町

  山梨郡第二区

(郭外の分)二十人町、代官町、佐渡町、深町

(市内の分)柳町(旧柳小路)、八日町(旧八日市場)、上連雀町(旧連雀小路)、下連雀町(同)、山田町、竪近習町、横近習町、魚町、穴山町(旧穴山小路)、工町、金手町、上一条町(旧一条小路)、下一条町(同)、和田平町、城屋町(旧城屋小路)、桶屋町、西一条町、緑町、片羽町、西青沼町、三吉町、大田町

 このほか、山梨郡第三、四、五、六区および巨摩郡第一、四、五、七区(省略)「甲府市史」第三巻近代(平成二年三月)

8月、大小切騒動。







2008/10/22 17:29:00|甲府
維新直後の甲府城下町
一の堀
東は舞鶴公園の石垣、西は平和通りから山交デパートを巻いて、北は文化会館の前の通りまで。

二の堀(甲府城下町の中枢部、明治5年まで「郭内」)
東は一の掘の北から文化会館東の通りを北口県有地の北辺の道を西に向かい、朝日通りに至る。
濠は朝日通りを南に廻り、共立病院北の甲府駅に通じる道を経て、県立図書館まで南東方向に周り、さらに平和通りを東京相互銀行角から商工会議所の前を通り桜町通りに至った。
ここを北上して甲府市の社会教育センターのところで一の堀に再び合流していた。

三の堀(明治四年の戸籍改正で「上府中」「下府中」、明治五年まで「市中」)
北は御納戸小路の北端から行蔵院の西に至り、山の手通りの北を通って横沢通りを過ぎ、山角病院の南で相川まで。

慶応4年(1868)=明治元年
11月、甲斐府、設立。

明治2年、日用品市場としての青物市場が魚市場から独立、片羽町から西青沼町に移る。

明治3年4月、竪町の「護国隊」屯所に甲府病院、開院。

翌4年には天然痘予防のための種痘開始、名称も山梨県病院と改める。
この年6月、柳町の風間伊七を中心に、近代的な会社起業のための報告書「商法会社取立見込書」が県に提出。

明治5年、穀問屋や仲間から問屋規則の制定、陸運の「御心得」あるいは「魚会社ト仲買ト締約書」などの約束事が決められる。
商業活動の活性化を促す条件整備が行われる。







2008/10/22 17:04:13|山梨
都人のあこがれ−差出の磯
 平安時代から天皇の命令で名歌を選りすぐった勅撰歌集というものが編纂されます。
その皮切りが「古今和歌集」で十世紀の初めのことです。
この歌集のために長年にわたる名歌を漁って選び、歌集を編纂した代表者は次の四人です。
紀貫之(きのつらゆき)が筆頭選者兼編集委員長格で、以下選者兼編集委員格が紀友則(きのとものり)、凡河内(おおしこうちの)躬(み)恒(つね)、壬生(みぶの)忠岑(ただみね)の三人です。
この時代を代表する歌人・歌学者と自他共に認める四人であります。
なんとこの中の二人までもが行政官として甲斐に関わっていたのです。

 たとえば、凡河内躬恒は、寛平六年(八九四)から寛平十年(八九八)まで甲斐国の国司を務めます。
任期については山梨日日新聞の先々代の社長で郷土史に造詣の深かった野口二郎の説です。
躬恒が甲斐の国府官人の歌学の推進者であったわけですね。
彼には、

東路の伊佐祢(いさね)の里ははつ秋のながき夜ひとりあかす我こそ(夫木集)

という歌もあり、うれしいことにこれは碑になって山梨小学校の正門脇にひっそりと残されています。
当たり前ですが、甲斐の国ではもててもてて呑めや歌えで……なんてことは歌わず、伝統的な旅愁を歌っています。
伊佐祢の里というのは今の山梨市の山根、岩下あたりだったろうと言われています。

 また、壬生忠岑は三十六歌仙の一人で、寛平・延喜ごろのほとんどの歌会に参加している文人です。
役人としては微官で近衛番長でした。
「古今集」撰進(九〇五)の後、甲斐の国に目(さかん)として赴任しています。
  
 彼ら以外にも、小野貞樹(さだき)という本朝三大美人と謳われた小野小町と縁続きの歌人も、甲斐の国司を通算六年勤めます。
在国は嘉祥四年(八五一)から斉衡四年(八五七)といいますから、前の二人よりも先輩です。
いったん任期が満ちるのですが、善政を敷いて仁壽三年(八五三)に再任されました。
彼には、

 甲斐の守にて侍りける時、京へまかりのぼりける人に遣しける
都人いかにと問はば山たかみ晴れぬ雲居のわぶと答へよ


という歌があります。
また、「古今集」恋の部に収められた小町との歌のやりとりがあります。

 彼らの影響でしょう、これまた宮中三大美人といわれた和泉式部もこの辺りを歌った詠を残しています。

雪ふればみやこのうちはよもながらみなしほ山のここちこそすれ

 都の雪に甲斐の塩の山を想起するというのですから、かなり知れ渡っていたし、想像力をかき立てたのだろうと思われます。

 古今集には東歌といわれる東国をモチーフにした一群の歌があります。
今挙げたような、当時著名な文人たちが彼らが甲斐の国に関わって、千鳥啼く差出の磯とか塩の山、七日子の粥とか、「鶴は千年」の「鶴」に通じる都留の郡とか歌に詠み込んだものですから、東歌の中で「甲斐歌」というジャンルは一時期ブームになっています。
万葉の時代、太宰府や越中に「歌壇」が形成されたといわれますが、古今集の時代、甲斐の山梨郡にも都の優秀な歌人官吏を中心にした、同様な「歌壇」があったと想像してもよいかと思います。
彼らの文学活動の成果で、水清き、物産豊かな延命、息災、長寿のユートピアとしての甲斐のイメージが定着して行くのです。
永久に平安が続くようにと祈念する次の歌は、差出に碑となって残されていますが、国歌「君が代」の元となった筝曲の曲ですね。

塩の山さし出の磯に住む千鳥君が御代をば八千代とぞ鳴く(読み人しらず・古今集)

 ほかにもたくさんあるのです。塩の山とセットで歌われることも多く、岩や豊かな水量を想わせる歌も多くあります。

塩の山さし出し磯の明方にともよぶたづの声聞こゆなり(左近中将経家)
更ぬるが寒き霜夜の月影もさし出の磯に千鳥なくなり(頓阿法師)
年経とも色はかはらじ岩がねのさし出の磯をあらふ白浪(前大納言資季)
浪かくるさし出の磯の岩ね松ねにあらはれてかはくまもなし(中宮大夫定房)

 文治六年、女御が天皇の元に入内した記念の屏風にもこういう歌が書かれています。
   
八千代とぞ千鳥鳴くなる塩の山さし出の磯にあとをたづねて(隆信朝臣・夫木集)

 しまいには、都人で、甲斐を訪れたことがない歌人で、イマジネーションによって甲斐の風物を歌うということさえ生じてきます。

小夜千鳥空にこそ鳴け塩の山さしでの磯に波や越すらん(忠房親王・新千載集)
波のうへやなほすみまさるあま小船さし出の磯の秋の月かげ(民部卿為家)

 国風文化が進展し、また、平安時代が進みますとイマジネーションで歌を作って、虚構のリアリティで勝負するようになってきますと、歌のモチーフとしての名所すなわち「歌枕」というのができてきます。
都人の歌心をくすぐるなどころ名所というわけです。
中世の歌学の集大成といってもいい順徳院の「八雲御抄」にも「しほの山」などが登場します。
また、後白河法皇が編纂したと言われる当時のはやり歌を集めた「梁塵秘抄」では、甲斐の「歌枕」を列挙してこう歌っています。

かひにをかしき山の名はしらね(白根) なみさき(波崎) しほの山 むろふし(室伏) かしはま山 すず(篠)のしげれるねばま山〔梁塵秘抄〕

 「しらね」は東海道からも白く見えた白根三山、あるいは甲斐の山々の総称といわれます。
「なみさき」は差出の磯です。
「しほの山」「むろふし」もこの近辺です。
「かしはま山」は現在の勝沼の柏尾山ではないか、また、「ねばま山」は富士の裾野の念場ではないかと言われています。

波さはぐ指出の磯の岩ね松かたかたにのみ袖ぬらせとや(後徳大寺左大臣)

 この歌の後徳大寺左大臣は鎌倉初期の歌人ですが、兼好法師の「徒然草」にも出てくるし、西行法師とも親交のあった著名な人です。
つまり、差出の磯というのは、平安時代を通して詩情あふれる歌枕として歌い継がれていくし、鎌倉時代になって編まれた最後の勅撰和歌集「新古今和歌集」まで本歌取りされるなどして登場してきます。

塩の山差出の磯の山の家たまももじりのあまの苫ふき

 これは御存知「方丈記」の鴨長明の作品です。
「あま」(漁師)の苫屋まで差出の畔に連想されています。

 それどころか、別に述べますが、差出の磯は江戸期の歌人、俳人、国学者のハートまでつかんでいたのですから大変なものです。(福岡哲司)