 ショッピングセンターの一隅のブックストアは、最近ファミリーの客を前提として、雑誌から実用書、児童書まで取りそろえている店が多い。 けれども、単行本や文庫本の棚を見れば、品揃えとしてミステリーと歴史小説、タレント本を含めてエンターテインメント中心である。いわゆる読み物の類である。
もっと小規模のキヨスクなどはミステリーや歴史小説でなければ官能小説中心である。 ある大病院の病院図書館を覗いてみたら、ここも九割方がミステリーと歴史小説で、入院患者でさえもミステリーと歴史を病床で楽しむのかと、ちょっと殺伐とした思いに駆られたことがある。
自分がそれほど愛好しないからよく分からないのだが、みんないったいどうしてそんなにミステリーと歴史小説が好きなのだろうと不思議である。 この嗜好を反映しているのか、テレビなどでもミステリー、サスペンスドラマを放映しない日はない。 一生の内、殺人事件と隣り合わせになるなんて希有のことなのだが、読み物やテレビドラマの世界では、毎日のようにのぞき込みたくなるひとが多いのも不思議である。 それならば、殺伐とした毎日のニュースを見続けてもかなり陰惨で猟奇的なものが多いような気がする。 どんどん刺激的なものを追い求める傾向が募っているのだろうか。
ミステリーの愛好者も幅が広くて若いお嬢さんから、サラリーマン、会社経営者など多様である。 嘗て古本屋の棚にハヤカワミステリーが何十冊もひもを掛けたまま持ち込まれているのを見たことがある。 古本屋の親父は
「医者が持ち込んだものだけれど、同類の愛好者はいて、すぐにはけるから心配は要らない」
と言っていたのを思い出す。
歴史小説についても老若男女の愛好者がいるが、年齢が上になるほど増加する傾向はあるだろう。 彼等もビジネスの第一線にいる人間から、仕事の第一線を退いた人までいる。 前者の中にはビジネスや人心掌握の手法を歴史小説から学ぼうとする管理職などもいて、織田信長型だの徳川家康型だのパターン化して読む人もいるようである。 現職を退いたような人は様々に想像(妄想)を巡らせながら歴史的なドキュメントや人物像を楽しむことが中心だろうと思われる。 そして、何かの機会に自ら取り入れた偏った歴史的解釈や見解を披瀝したくなったりするから油断ならない。
こうしてみると、日本の成人の読書生活のかなりの部分をミステリーと歴史小説が占めていることになる。 ということはミステリーと歴史小説が創作から出版、流通、廃棄というかなりのボリュームの消費になっているわけである。
ミステリーや歴史小説をいくらたくさん読む人がいても、それは読書家とは言えない。 とりあえず激しい消費家であることから「食書家」ではあるかも知れない。 さらに言えば、いくらたくさん読む(読書好き)からと言って、それがそのまま「読書力」があることとは結びつかない。
読書とは精神の緊張を伴う営みであり、読む前と後では読んだ人間の精神構造が多少なりとも改変されていなければならない。 読んでいるときの思いが読み終わってもさらに続き考えや思想のように変質することさえある。 ミステリーや歴史小説の読書にはそのようなことは望めない。 次から次へ量を消費している「読み物」は「読書」とは言えない。
子どもの成長過程で乳歯が永久歯に生え替わったり、声変わりがして大人の声帯になったりする。 成人してからミステリー、歴史小説、あるいはエンターテインメントに偏読しているのは、乳歯のままで、あるいは声変わりせずに大人社会に立ち混じっていることにほかならないと、私は思う。(福岡哲司) 写真:ハノイの市場でこしらえた蔵書印
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