新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2008/10/20 20:06:18|本・読書・図書館
ミステリーや歴史小説を読むのは「読書」ではない
 ショッピングセンターの一隅のブックストアは、最近ファミリーの客を前提として、雑誌から実用書、児童書まで取りそろえている店が多い。
けれども、単行本や文庫本の棚を見れば、品揃えとしてミステリーと歴史小説、タレント本を含めてエンターテインメント中心である。いわゆる読み物の類である。

 もっと小規模のキヨスクなどはミステリーや歴史小説でなければ官能小説中心である。
ある大病院の病院図書館を覗いてみたら、ここも九割方がミステリーと歴史小説で、入院患者でさえもミステリーと歴史を病床で楽しむのかと、ちょっと殺伐とした思いに駆られたことがある。

 自分がそれほど愛好しないからよく分からないのだが、みんないったいどうしてそんなにミステリーと歴史小説が好きなのだろうと不思議である。
この嗜好を反映しているのか、テレビなどでもミステリー、サスペンスドラマを放映しない日はない。
一生の内、殺人事件と隣り合わせになるなんて希有のことなのだが、読み物やテレビドラマの世界では、毎日のようにのぞき込みたくなるひとが多いのも不思議である。
それならば、殺伐とした毎日のニュースを見続けてもかなり陰惨で猟奇的なものが多いような気がする。
どんどん刺激的なものを追い求める傾向が募っているのだろうか。

 ミステリーの愛好者も幅が広くて若いお嬢さんから、サラリーマン、会社経営者など多様である。
嘗て古本屋の棚にハヤカワミステリーが何十冊もひもを掛けたまま持ち込まれているのを見たことがある。
古本屋の親父は

「医者が持ち込んだものだけれど、同類の愛好者はいて、すぐにはけるから心配は要らない」

と言っていたのを思い出す。

 歴史小説についても老若男女の愛好者がいるが、年齢が上になるほど増加する傾向はあるだろう。
彼等もビジネスの第一線にいる人間から、仕事の第一線を退いた人までいる。
前者の中にはビジネスや人心掌握の手法を歴史小説から学ぼうとする管理職などもいて、織田信長型だの徳川家康型だのパターン化して読む人もいるようである。
現職を退いたような人は様々に想像(妄想)を巡らせながら歴史的なドキュメントや人物像を楽しむことが中心だろうと思われる。
そして、何かの機会に自ら取り入れた偏った歴史的解釈や見解を披瀝したくなったりするから油断ならない。

 こうしてみると、日本の成人の読書生活のかなりの部分をミステリーと歴史小説が占めていることになる。
ということはミステリーと歴史小説が創作から出版、流通、廃棄というかなりのボリュームの消費になっているわけである。

 ミステリーや歴史小説をいくらたくさん読む人がいても、それは読書家とは言えない。
とりあえず激しい消費家であることから「食書家」ではあるかも知れない。
さらに言えば、いくらたくさん読む(読書好き)からと言って、それがそのまま「読書力」があることとは結びつかない。

 読書とは精神の緊張を伴う営みであり、読む前と後では読んだ人間の精神構造が多少なりとも改変されていなければならない。
読んでいるときの思いが読み終わってもさらに続き考えや思想のように変質することさえある。
ミステリーや歴史小説の読書にはそのようなことは望めない。
次から次へ量を消費している「読み物」は「読書」とは言えない。

 子どもの成長過程で乳歯が永久歯に生え替わったり、声変わりがして大人の声帯になったりする。
成人してからミステリー、歴史小説、あるいはエンターテインメントに偏読しているのは、乳歯のままで、あるいは声変わりせずに大人社会に立ち混じっていることにほかならないと、私は思う。(福岡哲司)
写真:ハノイの市場でこしらえた蔵書印







2008/10/20 19:56:43|本・読書・図書館
『カラマゾフの兄弟』を読んだ兄弟
 ドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』の新訳の売れ行きがすばらしくいいそうである。
けれども、すわ、ドストエフスキーブームの再来かというようには単純には言えないようで、一時的なファッションとしてのカラマゾフ、新訳ブームであるような気もする。
とは言え、新訳であろうが、ファッショナブルなカバーであろうがなかろうが、ドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』が読まれることは大いにけっこうなことで、ここから他の作品にも手を広げる若い読者がいればどんなにいいかと思う。

 ところで、今、なぜ、『カラマゾフ』かということである。『カラマゾフ』はいつだってあったし、僕たちの間では青春時代以降意識せずにきたことはなかった。
今、若い世代を中心に大流行と言われると、昨日今日『カラマゾフ』を知ったのだろうかという気がする。
それにこちらがあれだけ苦労して読んだのに、今のはもっと楽に読めるのだろうかなどとしゃくに障ってしまう。

けれども、ふと振り返ってみると、読むべき本の一冊として『カラマゾフ』という本があるのだよということを、我々の世代は周囲、ことに後の世代に言ったことがあっただろうか。
それをせず、今更なんだと言っても先行世代としてはみっともないだけである。
俺なんかとっくの昔から知っているぞというのは、みっともない極地だが、読むべき書物として若い世代に勧めてこなかったことも、かなり責任回避のような恥ずかしさがある。

 『カラマゾフ』に限らない。
高尚な文学談義でなくともよい。
我々は我が子に我が生徒に、我が後輩に、己の心底を揺り動かした本について、

「こういう本は是非読んでおくべきだ」

という話は機会のあるごとにすべきだろうと思う。
相手がうざったい顔をする、それは話す自分のせいである。
どれほど切実に話せるかにかかっているのである。
でも、いくらうざったい顔をしていても相手の耳朶に一人の親父がなんだか熱弁していた一冊の書名の一部くらいは残っているはずである。
何かに機会にその本に手を伸ばしてみよう、読んで見ようとしないとも限らない。

 新訳を読んだ二十代の青年と、三四十年も前に赤青色鉛筆を手にしながら懸命に読んだ初老の人間とが、『カラマゾフ』をネタに読書会めいた話し合いができるなんて素晴らしいことだと思う。

 読書における「古典」(クラシック)というのはこういうものをいうのだと思う。
それが一冊よりも五冊、五冊よりも十冊、十冊よりも二十冊ある時、日本人の精神文化は静かに堅実に受け継がれてゆくのだろうと思う。
かつてのように、もっと落ち着いたこの国でいられるはずだと思ってしまう。(福岡哲司)
写真:新潮社版『ドストエフスキー全集』15・16巻 原卓也訳(1978年)







2008/10/20 16:58:23|山梨
田原の滝・佐伯橋(都留市)
 たまにはたたずみたい場所がある。
昔「富士みち」と呼ばれた国道一三九号線の田原と十日市場の境の桂川に架かる佐伯(さえき)橋もその一つだ。

 ここから眺める田原の滝は濃い緑の縁取りと言い、富士山の溶岩が凝固した両岸の柱状節理と言い、見る者の視線を桂川の上流から中空に誘う。
かつては白根の滝、白滝とも言われる二段の滝で、下段は直下七丈(二〇メートル)巾七メートル、水音は近隣まで轟いたという。

 天和三年(一六八三)、この地に五ヶ月間流寓した松尾芭蕉は滝に遊んで

「勢(きほ)ヒあり氷消えては滝津魚(たきつうを)」(続虚(みなし)栗(ぐり))

の句を残している。

 浅い春の雪解流を詠んだ古い句碑はいつか失われ、昭和二十六年、郡内の有志によって蘇る。
自らの句碑の建碑は頑なに拒んだ飯田蛇笏の筆である。
芭蕉が滝を眺めた橋が滝上に架け替えられたのは、甲州再訪を願いつつ大阪に客死する二年前の元禄五年(一六九二)のことだった。
今はそこを富士急行が縫うように走る。

 明治三十一年、多くの文人墨客が杖を曳いた名瀑は両岸が崩れて一段となる。
関東大震災以降も崩落は止まらず、滝は三〇メートル上流に後退した。
昭和三十一年、大規模な護岸工事が施されて滝容はまったく変わった。
とは言え、幕末に

「雷吼(らいこう)巌石降り、龍跳(りゅうちょう)谷川を走る、沫飛(まっぴ)常に雨を起こし、瀾砕(らんさい)已(すで)に煙を生ず」(藤堂良道)
と謳われた偉容は、今や佐伯橋から想像するばかりである。

 奈良時代この地の領主だった佐伯公蔭に因む佐伯橋は、実は、昭和二年竣工と四十一年竣工の二基とが並んで現存する。
前者は通る人もなく、後者は付け替えられた国道にひっきりなしに自動車が往来する。
時折私の胸に浮かぶのは前者で、それは何も滝の眺望に好都合だという理由ばかりではない。

昭和二年は県が土木出張所制度を初めて採用した年だ。
橋梁専門の技手として単身山梨県に派遣された埼玉出身の私の祖父は、この年、谷村土木出張所の所長を務めていた。
両親の結婚より前に亡くなった祖父だからもとより私には会えようはずがない。

釜無川に架かっていた旧信玄橋も今はない。
欄干も朽ちて鉄骨が覗き、人跡絶えた佐伯橋は相見ることのなかった祖父の仕事を偲ぶよすがとして私にはとりわけゆかしい。(福岡哲司)







2008/10/20 16:26:14|山梨
地域が再び輝くために―あとがきにかえて―
 山梨や甲府について、かつてとても繁栄していて……という話をすると、「どうすれば以前のような活気が取り戻せるのか」と尋ねられる。
一読書人である自分に地域活性化の特効薬など思いつくはずもないが、歴史を振り返ってみると、かつて地域が賑やかだったわけや沈滞してしまったわけについて気づくことがないこともない。

新しもの好きと飽きっぽさ

 先ずヒントになるのは、この地域に住む我々自身の性向である。

 一つには、我々は新しもの好きである。
以前、新商品のモニタリングをするのに山梨は適していると言われたようだ。ここで流行ればよそでも流行る可能性があるというわけだ。

 総じて我々は見栄っ張りでもあるらしい。
「同じ品物でも高い値を付けなければ売れない」と聞いたことがある。
テイクアウト食品などの売れ行きも客一人当たりの単価が多いとも聞く。
つい余計に買うのである。
しかも、たまのことである。宝飾品でもパッケージが紙箱、布貼り、革張りとあれば、高級そうな方から売れるという。

 一方で、我々には飽きっぽさもある。
他県からここに移り住んできた画家が、毎日のように来ていた人がある日から不意に来なくなる。
何か彼を不快にさせることがあったのだろうかと頭を悩めたが、特に思い当たらない、と言う。

「鑑識眼」と見栄っ張り

 亀屋座や三井座(後の桜座)あるいは山梨を訪れる芸人などの支持のされ方を見ると、芸能、芸術、ファッションや食などについて目や舌が肥え、いわゆる通人とかグルメ、おしゃれと言える人も少なくなかったようだ。
今でもそうだろう。

 同時に人目を気にするところもあって、自分の眼力を示したがらず、自己規制してしまうところがあるのだ。
周囲の者でも、目立つ者は「巧者っぽい」とか「ちょびちょびしている」と言って嫌う。

 遠い昔の話だが、仙台からこの土地で学んでいた友人の一人が、明るい色のジャケットを着ていたところ、バス停などで、「あんなの着るなんて」等の陰口をきかれたと言っていた。
一度や二度ではなかった。
「見ず知らずの、いわば通りすがりの人にですよ。よそではこんなことはないと思います」
と、彼は言うのである。

 この土地でうけるモノやコトには次々に新しさとサプライズの対象であることが必要であるらしい。
かといって、単に都市のブームに乗ったり、よその土地の物真似では長続きしない。
ボーリングやプールバーの盛衰をみれば分かることである。
「みんなと違う」ことは恐れるのに、「みんなと一緒」は許せないと感じるのである。
新しさだけでは駄目だし、伝統や古さだけでも駄目なのである。

 新たな事業提案をする場合、山梨でもご多分に漏れず「合わせ技」が有効であると思える。
たとえば、グルメにヘルシーというテーマが合わさるとか、カルチャーに社会貢献的な効果が伴うなどである。
ことに女性、若年層、あるいは高齢者も含めた幅広い支持を得るためには、これは欠かせない。

地域の底力

 オリジナリティという点でも、気づくことはある。
藤村県令が設置した勧業製糸場は群馬県富岡の国営製糸場に次ぐ規模だったが、前者は名取雅樹など山梨県人の技術を使い、後者は外国から導入した技術だったという例もある。

 今でも、鉄道のレールの下に入れる絶縁体の全国シェアの九割以上を占めている会社がある。
特許も多く所持していて、二十四時間三交代で工場は稼働しているが注文に応じきれないほどだという。
表から見れば、スレート葺きのさえない工場だから、求職者にはあまり魅力がないようだ。こういう中小の企業も山梨には少なくない。

 一方、大企業のパソコンの電源ユニットを作っていたが、親会社が製造拠点を中国に移したために、今や焼却炉製造に転じている会社もある。
親会社の不祥事で、食品容器の製造ができずに機械が遊んでいる会社もある。
一商品に特化した工場だったから、全国に何工場かある中で、山梨の工場だけが操業縮小の憂き目を見ているのである。
同様の事情で、ある専門高校の卒業生の半分を採用していた企業で、ある年以降採用ゼロとなった企業もある。
こういう企業も、また、山梨には多い。
オリジナリティの有無の違いである。

臆面もなく自慢しよう

 風土・環境に対する自嘲癖もある。
「こんな文化不毛の土地」とか、「うまい物の何にもないところで……」とか「貧乏県で」とかしきりに言いたがるのである。
そのくせ、地元山梨の歴史も伝統文化も物産もほとんど知らないし、関心も薄い。知らないから、平気で自嘲できるとも言える。

 だから、信玄餅がよその人にずいぶん評判が良かったり、海外への土産の人気ベスト3に入っているなどと聞くとびっくりしてしまう。
今や、ずいぶん安くなった月の雫やあわびの煮貝、枯露柿などがよそではしごく高級品として受け止められることに驚いたりする。

 あるいは日本橋千疋屋の高いフルーツを手に取る都会人の山梨への印象。深沢七郎の弁ではないが、我々は「ブドウなんて金出して食うもんとは思っていない」にもかかわらず。
ワインだって、今や県人が思う以上に全国や海外で評価されているのである。

 印伝のささやかなポシェットを差し上げた某女性作家からは「永年印伝には憧れていたの」
といたく感謝されたこともある。
甲府を訪れるサッカーの他チームのサポーターから、
「小瀬ではもっと食べるものがほしい。ほうとうなどももっといろんなところで食べられたらいいのに」
という質問や希望がネット上の掲示板に頻出しているのを見掛けたこともある。
サッカーファンならずとも、私個人のホームページにも、そのテのメールが来ることもある。

 トンネルをくぐるたびに広がるブドウ畑、四月の桃畑の光景、昇仙峡の景観などのことを、他県の人が目を輝かして語るのを度々目撃するにもかかわらず、我々は「こんなものは……どうせ……」と重視しない。

 価値を知らないから大事にしない。
自慢もできない。従って、アピールの工夫もしない。
自嘲ばかりが続く。
思えば、この癖は「なまよみの甲斐」と言われた頃から、我々のDNAのなかに刻み込まれたものなのだろうか?

 先ず、我々自身が地元山梨のよさを知らなければ始まらないのである。
そして、臆面もなくふるさとを自慢するところから地域振興も始められねばならない。

来るのを待つから「来させる」へ

 こういうことを思う時、山梨が東京など人口集中地に近いことは、地理的条件として有利であっても、けっして不利ではない。
人が来ないと嘆く、来るのを待つのではないのだ。
来させるために有利な条件が、山梨には多く備わっているはずである。
ただ、自分たちがそれに気づいていないだけである。

 県都甲府を焦点にしてみて二三気付くこともある。
来させるためには足を確保しなければならない。
五百台くらい停められる駐車場も必要だろう。
使いやすいバス路線、タクシー運転手の教育も大事だ。
Jリーグの試合は必ず観られる大型スクリーンを市街地の広場に設置するスポンサーがいてもいいじゃないか。

 餃子や焼きそば一品で知られている土地もある。
山梨に、ほうとう、御嶽そば、吉田うどん、おだら、酒饅頭、ミミ……の粉食文化をを安く、おいしく一堂で食べられる「麺類博物館」(メンパク)を作ろうという発想はないものか。

 果物を産出し、よそへ出しているが、フルーツ・パーラー一軒見たことはない。

 公営の温泉は、どうしては中心になくて、町はずれの不便なところにしかないのか? 
町おこしや村おこしにつなげるためには中心地に置く方がいいに決まっている。

 やれることはいっぱいある。
山梨の近代史を振り返れば、ほかにも出来そうなことや、かつて成功したやり方もたくさん見掛ける。
逆に効果の挙がらなかったことや衰退する要因も手に取るように分かる。
今でも、前者を試みず、後者を繰り返すようなことは繰り返されているような気がする。
「歴史に学ぶ」とはいつも有効だと思うが、なかなか出来ないのである。

共通の意識と歩調を

 かつての甲府の「夜店」の賑わいにも心引かれる。
猥雑ではあったが、駅周辺の数々の屋台、露天は魅力的だった。郊外で遅くまで賑わっているナントカ・タウンやショッピング・モールは、意識的に作った「夜店」だと言えなくもない。
ここに人が集まるのは、買い物もだが、家族や彼女を連れたレジャーの一環なのである。
今や大資本、全国資本がこのテを使って進出し始めている。

 地域からナントカ・タウン化すればいいのである。
一か所に集められない市街地なら、一町挙げてナントカ・タウン化すればいい。
かつての桜座市場や仲見世ができていたように、進出してくる大資本、全国資本に対抗するための専門店が共通歩調で営業するマーケットも人を集められるだろう。
これは商店街や通りに名前を付け、街灯を揃えれば済むというものではない。
異業店同士がいかに相乗効果を生むようにするか、本気で考えるべき時だ。

 旧来の行事と「本気で」タイアップするのも大きな効果がある。
かつての恵比須講のように市街地と周辺の町村とで人が盛んに出入りした年中行事も捨てがたい。
厄地蔵、信玄公祭、正之木さん、七夕……祭はただ季節の「句読点」の役割だけではなかった。
これに伴って、人も物、従って金も動いたのだ。
開催期間も場所も散発的なイベント開催は、金のかかる割には、市街地の持続的な振興にはさほど役立たない。

全国、そして、世界を視野に

 山梨だから、甲府だから……という考え方も企画をみすぼらしくしているように思う。
取り組む姿勢もその場しのぎになっているのではないか。ローカリティと共にユニバーサリティをどこかに意識していなければ集まる人は増えない。
大げさに聞こえるかも知れないが、全国や世界の一流をどこかで意識していなくてはならない。
そのためには情報にはつねに耳をそばだてていなければならないだろう。

 桜座復活に向けた集会で、会場の参加者から
「地元の振興に役立てばありがたい」
的な発言があった時に、田中泯氏が
「地域、地元の振興なんて結果だ。最初からそれが目的ではない。世界的な水準の芸術、芸能の拠点の一つを目指している」
と激しい口調で言った。
この気持ちがなければ長続きしないし、質量共にいつまでも地域レベルを越えられないだろう。
結局、地域振興にも役立たないだろう。

 全国、世界を意識すれば洒落っ気も持たねばならない。
大々的なものから、手作りのものに至るまで、広報やアピール、装飾にしても、独りよがりではない、どこか洒落たアイデアや発想がなければならないだろう。
間に合わせではない、ひと工夫、ふた工夫する気持ちが必要なのだ。

 では、これらのことを誰が推進するのか。

「民」の力で持続させる

 山梨に限らないかもしれないが、「官」が「民」を使ってやる、「民」は「官」に使ってもらうという意識が、我々にはまだ強い。
残念なことにボランティア、NPO法人でさえそうだ。

 山梨の近代史をたどってみると、これがはるか以前からのやり方だとも思えない。
藤村県令は強力なリーダーシップの持ち主だった。が、近藤喜則や前述の名取雅樹が好例だが、彼の施策を受け入れ、強力に現実化していったのは、地元山梨の「民」だと随所に感じる。「民」は時に体制にとって批判勢力に転化することはあるが、一方、「民」には「自前」の技術やノウハウ、なによりも「やる気」があったのである。

 パワーバランス、エコノミーバランスによって「官」の方針が変わることは、誰でも知っている。
流行りを追って耳目を引く施策や方針を打ち出したがることも。
そのわりには決して過去を否定しない前例主義や非冒険主義がある。逆に前職の仕事は内心では評価したがらない特性もある。
「官」のみでは決してよき持続性は期待できない。

 「官」はなんでもこなす。
が、だからと言うべきか、永遠にアマチュアである。
にもかかわらず現今の流行やノウハウを取り入れたいから、高い委託料を払って外部のシンクタンクに企画やアイデアを出させる。
そして、「民」やすでに動いている「現場」の実態を顧慮しようとしない。
いわゆる「ハコもの」や「イベント行政」がうまくいかないのは当たり前である。
過度に「官」に期待するというのは望ましいことではない。

 地域が元気になる、元気で在りつづけるというのは、結局、「民」のパワーが育って行くことに外ならない。
それには、「民」の間に、地域の未来像についての共通の意識がなければならない。
それこそ地域振興の持続するモチベーションとなるからである。
推進の中心となる者と熱心な「ひいき筋」がなければならない。
リーダーシップと真のボランティア、NPO法人の間柄のようなものだ。

 地域に元気を取り戻し、維持し続けるためには今のところ「官民」協働の体制が望ましいだろう。
が、主導権は「民」、また、「現場」にあるべきなのである。
そうであってこそ、地に根付いたものとなる。(福岡哲司)
※「近代山梨の光と影」(山梨日日新聞社)あとがき草稿
※写真:山梨県主催一府九県連合共進会(明治39年)







2008/10/20 16:08:34|甲府
作家・文人、昇仙峡に来たり遊ぶ
 角川書店の「地名大辞典」(19山梨編・一九八四)には、こんな記述が見える。

 村方工事は天保十三年に終わり、同十四年には(長田)円右衛門の工事も終わった…(略)…はじめ生活道路として新道はつくられたが、円右衛門は完成後出現した昇仙峡の景観の保存に心を向け、これに共感する甲府勤番士たちは彼を援助した。彼は弘化四年昇仙峡中ほどの腰越の地に接待亭を築き、草鞋(わらじ)を売ったり、通行者に湯茶を接待して新道保全の資金を蓄え、荒天の際は接待亭を休み所として提供し、村人から「お助け小屋」と呼ばれた。彼はまた、来訪した武士・文人に景観を案内し、金桜神社神主や学者に奇岩・絶景の名称を乞い名付けている。

 けれども、これは「勇み足」というもので、江戸期から明治二十年代頃まで「昇仙峡」という呼び名は使われず、「御嶽新道」というソッケない呼ばれ方をされていた。
ここは巷間「猪狩川窪寒ぢごく/まして黒平おにがすむ」などと唄いはやされた僻遠の地だったが、新道が開ける前から甲府城の学者達にはこの渓谷の山水画を彷彿とさせる風光はつとに知られていた。
そして、今日に伝わる覚円峰、仙娥滝(別名沸玉泉)等が命名され、多くの漢詩文に謳われた。羅漢寺は「甲斐国志」に既出だし、仙娥滝の別名「沸玉泉」は「甲斐叢記」にも見られ、甲府学問所・徽典館の今野霞舟の詩にも「沸玉泉」がある。

 地質学者で山梨県の嘱託だった石原初太郎―太宰治の岳父だが―の史蹟名勝天然紀年物叢書第二冊「甲斐の名勝御嶽昇仙峡と其奥」(昭和五年八月)によると、明治二十年(一八八七)に二松学舎大の創立者の中州・三島毅がこの地に遊び、「同行の諸友で命名しよう」ということになり、「巨摩渓」と名づけた。

 明治二十年三島中州(毅)先生こゝに遊び其記(「巨摩渓並序」)を作る、中に「左の語がある「称曰御嶽新道(しょうしてみたけしんどうといふ)。而渓未有名(しかしてけいいまだなあらず)。与諸友議選今名(しょゆうとぎしていまなをせんせん)」云々と而て其の選名は「巨摩渓」である、(略)故に昇仙峡といふ名称は明治二十年以後の命名で、何人が名づけ親であるか不明である。しかも今日では押しも押されもせぬ通り名となつたのである。昇仙といふ意味は一度金峰山へ登つて一考すればよく体得されやう、即ち何人でも羽化して登仙したるが如き心持になる。此の峡は即ち此の仙地に登る渓谷といふ意であらう。少なくとも私は左様に感じた。

 篠原良雄の『詩歌の昇仙峡』(昭和二年六月)などに収められた作品は次のとおりだ。
時代の古いものは漢詩文が殆どである。

 仙嶽新道ノ銘(乙事完)仙嶽闢(びゃく)路(ろ)ノ跋(ばつ)(同)和田嶺(友野霞舟)高砂山(完)長潭(ながとろ)(完)不動滝(完)轆轤(ろくろ)滝(霞舟)寒山拾得(じっとく)(完)有年橋(霞舟)結松(霞舟)柴橋(完)接待亭(完)覚円峰(かくえんぽう)(霞舟)石門(霞舟)朝天(完)雪虹瀑(霞舟)沸玉泉(霞舟)仙娥(せんが)滝(たき)(完)猪狩(いかり)村(霞舟)嶽詞(完)游御嶽詩(広瀬台山)御嶽遊記(中村正直)巨摩渓並序(三島毅)游金谿五首(富岡敬明)香南(こうなん)与(と)高嶋九峯(たかしまきゅうほうと)游金渓(きんけいにあそぶ)(同)五月念四、陪竹亭伯(ちくていはくにばいし)、游金渓次韻高嶋九峯(香川香南)金渓行(成嶋治平)(略)辛亥秋日与全国商業会議所諸員(ぜんこくしょうぎょうかいぎしょしょいんと)游昇仙峡(しょうせんきょうにあそび)卒賦而(にはかにふして)似用股野藍田翁之韵(またのらんでんおうのいんににせもちふ)(成島龍皐)宿金渓館(きんけいかんにしゅくす)(同)(略)昇仙峡植樹(同)……

 これを見ると、大正期くらいまでは、一般に「御嶽新道・巨摩渓・金渓」等の名が適宜使われ、昭和初年から「昇仙峡」の名が用いられるようになったことが分かる。

 前掲の石原初太郎の『甲斐の名勝御嶽昇仙峡と其奥』によれば、

 此頃まで御嶽へ登る嶺道即ち所謂外道、沢道即ち余のいふ清川渓と対して昇仙峡を単に新道と称え数年前までは甲府からは和田嶺を越へて天神平に出たもので、千塚大宮を経て自動車が天神平まで通ずるようになつたものは四五年以来のことに過ぎない。

とあり、御嶽参道のルートの一つは「外道(嶺道)」で和田峠から入る路。
また、「沢道」は亀沢から清川をたどる路、そして、これを「新道」が補完する。
石原によれば、前掲書は昭和五年(一九三〇)の刊行だが、「新道」が開ける数年前までは前の二つのルートが主流だったと述べている。

 御岳昇仙峡が一般に知られるようになったのは、言うまでもなく水晶で、産出は二万年前の旧石器時代にまでさかのぼれるという。
鉱脈の発見は平安時代とも延喜十五年(一五七五)とも言われるが、十八世紀初頭の享保の頃、原石を買い付けに来た京都の玉屋が金桜神社の神官に研磨技術を伝授したのが、加工製品としての始まりだと伝えられる。
これは神具や信仰の対象としての製品化である。水晶細工は、原石の採取が行われなくなった現在に至るまで、甲州を代表する産品としてずっと受け継がれてきている。
明治六年(一八七三)に御岳村の塩入寿三の水晶工芸品がオーストリア万国博覧会日本政府出品作品となったのは、繁栄の証左でもある。

 明治七年(一八七四)に黒平、高町、猪狩、草鹿沢、宮本が合併して宮本村となり、明治十一年(一八七八)、昇仙橋が架かり、十四年(一八八一)の改修、十五年(一八八二)の移設を経て、観光地としての昇仙峡探訪の途が開けた。
が、なんと言っても、明治三十六年(一九〇三)六月十一日に鉄道が甲府まで開通し、東京から片道六時間に短縮されたことが拍車をかけた。

 明治三十七年(一九〇四)には『不如帰』で既に文名の上がっていた徳富蘆花が人生行路に悩み、この地に杖を曳く。
十一月二十四日には、根岸短歌会の正岡子規の後継者の伊藤左千夫が甲州の神奈桃村の案内でこの地を初めて訪れる。

 甲州御岳の面白さハ話しにならぬ日光と雖も迚(と)ても及はぬ何でもかでも君は一ぺん見ねばならぬところぢや

こもりくの森を少なみ里皆が家あらはなり甲斐の国原
(結城貞松宛 明治三十七年十一月二十七日)

 甲州御嶽の景ハ遙に日光以上で耶馬渓を見た人ハ耶馬渓(やばけい)以上たと云ふさうぢや大八洲第一の絶景か隣国の甲州にあるのだ汽車賃一円二十四銭で往かれる
(長塚節宛 明治三十七年十二月七日)


 左千夫は感激醒めやらず、明治三十九年(一九〇六)一月、根岸短歌会御嶽歌会を金桜神社門前の大黒屋で開き、「馬酔木」誌上でも特集を組むに至った。
左千夫の詠には次のようなものがある。

   伊藤左千夫「御嶽仙娥滝」

星屑の光たぎちて落ちそゝぐ真空(まそら)の瑠璃(るり)の波たゞよへり

色深み青ぎる滝壺つくづくと立ちて吾(あ)が見る波のゆらぎを

姫神のめつる滝壺波ゆらぐ蒼波が底に宮居ますかも

天雲の八重垣垂れて神の子が舞せむ滝壺時つげこさね

むらさきに黒み苔むす大巌のまほらを断ちてどよもす滝つせ

あかねさす樺に匂へる底岩に映ゆる青波見れど飽かずも(「馬酔木」特集号)

滝つぼに石のつぶてを打ち遊ぶ若子(わくご)招くべく雲降り纏ふ

滝壺の青みが底に潜みたる蛟(みずち)舞はせむ笛の音もがも

懸橋を丹塗(にぬり)青塗滝つぼに天(あも)降る少女が来遊ぶ吾が見む

霊(たま)ある石霊ある水の寄りあひに御嶽はなりしうつの御嶽は

雲とぶや天馳づかひが種置ける覚円峰の岩肩の松

滝壺の瀬織津姫は照り透底津宮居に月恋ふらしも

心ぐく月の照る夜は山祇(やまつみ)も瀬織津姫も水面に舞せむ


 明治四十一年(一九〇八)、第一高等学校の学生だった芥川龍之介が、徒歩で奥多摩から塩山、甲府とたどり、七月二十七日、昇仙峡に入る。
芥川もまだ「体育会系」の青年であり、当時、学生達には剛健の気を養う「修養」というような気風も生きていた。

 四十五年(一九一二)四月には著名なジャーナリスト松崎天民が「甲州見聞記」を「東京日々新聞」に連載、「御嶽新道の印象」を書く。

 大正三年(一九一四)、平瀬浄水場が完成し、甲府全域に昇仙峡の清流が給水されることとなった。

 大正に入り、さらに昇仙峡は知られるようになり、八年(一九一九)には窪田空穂の短歌連作「御嶽の峡谷」がある。

山峡にこもらふ響沈みゆき澄みてするどき川音とかはる

山川のきほひを強み川中のいほつ岩むら揺れみだり見ゆ

落ちたぎつ山川の瀬を肩にせき岩よこたはるこの川隈に

あふぎ見て目の畏きに思ほえず歩み退きたり高きかも巌

大岩を乗り越え落つる川水の澱にしあぐる音の重さはや

壁なしてそゝり立つ岩水ふくみほのに照りたり黒きその岩

御嶽路の峡路はあやしつばらにも見つつ来ぬれど見ぬ如く覚ゆ


 大正十一年(一九二二)十月には、当時摂政宮だった後の昭和天皇が来県、「チェア」と呼ばれる輿なども召さず、前日来の降雨による泥濘も厭わず和田峠に向かったという。
峠では五分の休憩で出発、激しい雷雨の中レインコートを着用して天(てん)鼓(こ)林(りん)、仙娥滝を遊覧した。
覚円峰足下の金渓館に休み、「山梨日日新聞」の記事(大正十一年十月八日)によれば「耶馬渓以上である記者団に斯く伝えよ」と語ったという。

 そのせいばかりではあるまいが、翌十二年(一九二三)三月、国の名勝地指定を受け、十三年(一九二四)に徳富蘇峰が発刊した『烟霞勝遊記』には「御嶽の勝」が収められた。
ここでも大分の耶馬渓と比較され、これに勝ると称揚した。
十四年(一九二五)には、難工事だった長潭橋が竣工した。

 昭和二年(一九二七)、「東京日々新聞」「新日本八景」二十五勝に昇仙峡と富士五湖が入選、詩人の野口雨情が来県した。
雨情は当時、詩を高踏的な領分から人口に膾炙しやすい民謡の体で創出することに熱心だった。
翌年、甲府商工会議所で御嶽保存会主催で「甲州音頭」が発表される。
作曲は中山晋平、振付が花柳徳吉だった。

富士は東に御嶽は西に/音頭とるなら まん中に

杉になるなら御嶽の杉に/御嶽三柱の守り杉に

○甲斐の黒平山家ぢやけれど/見せてやりたや能三番

●鷲の羽ばたき唯ひと息に/越せや猫坂滝坂に
 
山が寒なりやどの木の陰で/雉子のめん鳥や寝るのやら

甲州姉さま聞いたか見たか/葡萄にや仇花咲きやしない

●最早火祭りもう山じまい/お富士はこれからひとりぼち

千鳥や差出の磯でも啼くが/妾や泣かれぬ袖時雨

●富士は五つの鏡の湖に/朝な夕なの薄化粧

●船頭行くかや富士川下り/唄で流すよ十八里


 ○は後に刊行された『民謡詩集波浮の港』(昭和四)に収められていて、「山梨日日新聞」の記事にないフレーズ、●は逆に「山梨日日新聞」にはあって『民謡詩集波浮の港』にはないフレーズである。
発表会当日は地元でもあり、サービスにこれ努めたということだろうか。

 戦後の昭和二十八年(一九五三)三月、国の特別名勝に指定、毎日新聞社主催「全国名勝地百選」渓谷の部第一位になった。
県内では官民挙げて投票したというエピソードも残っている。
これを記念し、また、翌年が円右衛門没後百年であるため御嶽昇仙峡祭も開催された。

 衝撃的だったのは昭和三十年(一九五五)、金桜神社の中宮・本宮・神楽殿が焼失してしまったことだ。
が、翌年には本殿が復興された。

 昭和三十七年には滝上観光協会が設立され、三十九年(一九六四)、仙娥滝上の岩盤を開拓、昇仙峡ロープウエイ株式会社が創立された。
さらに四十七年(一九七二)四月には有料道路も開通し、次第に観光地としての整備が進んだ。

 昭和五十二年(一九七七)には金桜神社境内の杉林群が甲府市の天然記念物に指定され、五十七年(一九八二)には同じく金桜神社の古式を伝える太々神楽(だいだいかぐら)が甲府市の無形文化財に指定された。

 足の便のよくなったわりに幽邃の感のある昇仙峡は、今もミステリーの舞台に使われる。
松本清張「ゼロの焦点」「地方紙を読む女」笹沢左保「人喰い」(第14回日本探偵小説作家クラブ賞)西村京太郎「恐怖の清流 昇仙峡」津村秀介「昇仙峡殺人事件」大谷羊太郎「甲府昇仙峡殺人事件」。

 菊池寛の「恩讐の彼方に」の耶馬渓を凌駕すると言われる昇仙峡。
「殺人」や「心中」に限らず本格文芸にも登場してもらいたいものである。

 他にも山口瞳エッセイ集「禁酒禁煙」やら津島佑子には長編小説「火の山―山猿記」、母美知子と祖父石原初太郎を追尋するエッセイ「『山梨県名木誌』と『唐詩選』」もある。

 我々にはお馴染みの昇仙峡だが、惜しいことに余所(よそ)の人が驚嘆するような四季折々の真の味わいには気づいていないのかもしれない。
自然景観としても文化遺産としても、もっと外に向かって誇り、案内してもいいのではないかと痛感する。(福岡哲司)
(甲府文芸講座二〇〇五・九・一〇に加筆した)