新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2008/10/20 15:52:41|甲府
大正初めの或る夜、甲府桜町通りで
―え、兼ちゃん、どおでえ、この夜店の賑やかなことといったら、避けるのもてえへんだ。
甲府館のカツドウもハネた頃だな。

―今かかってんのは目玉の松ちゃんか? 
まったく、よく人が出てらあね。
店先にも吹矢にも客が鈴なりだし、雑貨や瀬戸物やの戸板店も冷やかしでいっぺえだ。
万平商店の前じゃオモチャ目当てのガキだあな。

―製糸工場も景気がよくなったようで、近郷近在からも繰り出してるんだなー。
若松町の芸者衆もウケに入ってるだろう。

―職人や勤め帰りのあまっこまで出てらあ。
よお、盆栽屋ぁ―、売れてるかい? 
冷やかされるのも賑わいってやつで、気長に商売しねーよ。

―ところで、おめえ、桜座でオッペケペーの貞奴観たってな。

―ああ、今じゃ帝劇の「トスカ」ってんだ。
木戸が高くってな、平戸間で観た。

―どうでえ?

―どうもこうもねえさ。
いやに気位の高そうな女でな。
おまけに
「花という花がみんな月光の中に香を放つ園に私だちの恋の自由を謳おうではありませんか」
なあんて台詞を言われたって、気恥ずかしいってもんさ。

―何しろパリやアメリカでうけたって言うぜ。

―「甲府じゃあたしの芸術が分かるかしら、客なんぞ来なくってもしかたがないわさ」
なあんて態度だな。乗り込みも町廻りも馬鹿馬鹿しいからやらねえときちゃー。

―よおー、学生さん。
学生というにゃー老けてるが……。
あんたのバイオリンはいつ聞いても物寂しくていいなー。

―おめえ、稲積亭の下足番の爺を知ってるよな。

―こないだ死んだってな。
汚ねえうえに無愛想な爺さんだった。
昼は飯田田圃の小屋で鳴子引いて雀追ってたって聞いてたが。

―そおよ。
去年、朝太っていう若え噺家が来てたろう?

―東京の二ツ目だと聞いたが、二十七、八の生意気そうな野郎だったっけ。

―あの野郎が「甚五郎の大黒」って噺を演ったんだ。
爺さん「こういっちゃなんだが、甚五郎は変人だが、与太郎じゃねんですぜ」ってたしなめたそうだ。
朝太の野郎、殴ってやろうかと思ったが、聞けばもっともだ。
爺さん、元はといやー四代目の三升屋小勝の弟子で小常っていう二ツ目だったって言うぜ。
飯田田圃に行って「甚五郎」をみっちり教わったそうだ。
爺さん、旅回りの挙げ句、甲府にとぐろ巻いちゃったんだな。

―稲積亭は面白えなー。
浪花節に義太夫、講釈に操り人形、手妻って。
三ちゃん、さぶいから、なんか喰おうぜ。
屋台で握りか、うどんか? 支那そばか?

―それより、山城屋バーで一ぺえやろうじゃねえか。

―俺りゃ、縄暖簾の方が気楽だな。

―何、バーなんて言ったって、西洋居酒屋よ。(福岡哲司)

※朝太=後の古今亭志ん生







2008/10/20 15:46:39|甲府
シタマチへ行く
 シタマチへ行く−子どもの僕にとって、どんなに魅力的なことばだったろう。
前に僕が座り、荷台に三つ年上の叔父が乗って、祖父の自転車は朝日町を下って行く。
下町は仲見世や銀座、桜町、柳町、オリオン通りであり、大神(だいじん)さん、正(しょう)の木さん、ゑびす講の賑わいだった。タケキンのランドセルの匂い、早川ベーカリーのアイスクリームの甘い香り、キリン館のハヤシライスの甘く焦げた味、甲斐絹屋の詰め襟の清々しい手触りだった。

 石畳のガード下を再び朝日町に向かってくぐり抜ける時、今度、下町を訪れるのはいつだろう、と僕はいつも切なくなった。
歩いて帰ろうものなら、水門町の天下堂の前で大の字になって、僕は本をせがんだ。
が、たいてい大人たちの右手と左手にぶら下げられて、ガードの方に曲がってしまうのだった。
朝日町のアサカワでも恭しくアイスクリームが出てきたしハヤシライスもあって、馴染みが深かった。
が、それゆえに朝日町は下町ではなかった。
そこは住んでいた塩部と下町とをつなぐ商店街でしかない。
下町は華やかでハイカラで猥雑でいい香りの混じり合った、特別な〈町〉だった。

 住んでいる処を、僕は〈町〉だと思ったことはない。
おそらく大人たちもそうだったろうと思う。
だいいち、地名も「美咲二丁目」などという照れくさいものではなく、「西久保」と田舎じみていた。

 陸軍病院だった国立病院の裏のカラタチの径は、気が滅入るほど陰気だった。
小学校は四十九連隊の跡に建っていて、弾薬庫の跡の広い三和土(たたき)はローラースケートに都合が好かった。
浴場の釜がまだ残っていて、炊き口からもぐり込んで、僕らは野良猫のように遊んだ。
上下の校庭の境に防空壕が口を開けていて、ぬるぬるした壁にWXYのような落書きがあったり、アベックが抱き合っていたりした。
残っていた幾棟もの兵舎は新制大学の寮や戦災者のアパートになっていた。
電信柱を流して遊んだり、ノリちゃんが「地方病」に罹った相川を竜雲橋で渉るとレンペイ(練兵)場が広がっていた。
宅地造成をしていたのか、土塁を崩すトロッコは恰好の遊具だった。
麦の穂を摘んで口のなかでくちゃくちゃ噛んでガムにしたり、ヒバリの巣を探し歩いた。
落とした錫杖(しゃくじょう)を捜し廻った挙げ句、兵舎の便所で首を吊った兵士の幽霊話が、休み時間の僕らの話題だった。
〈街〉でも〈町〉でもなかった。
彼方の下町は不意に浮かんでくる、夢のような気がした。

 住んでいる処から、途中の道のりがすっぽり抜けて、赤や黄の提灯や電飾、旗に肩を撫でられながら往来する下町の雑踏が、いきなり頭の中に立ち上がってくる。
駅前までは辿れる。
しかし、そこから先はもういけない。
どの角を曲がればどんな町並みが開けるのか、曖昧模糊としていた。
遠くから通って来る友人が多かったから、オシロ(城)が放課後の集合場所だったが、頭の中のシュミレーションはそこまでだ。

 行動範囲が狭かった、というか必要なかったのだ。
あの頃、空間にも役割があって、自分の在るべき時と場合とがあったようだ。
今や、迷路をくぐり抜けて、いきなり下町に至ることもなくなった。
意図して、踏み迷う路を、僕は探し続けている。
遠い遠い蠱惑的なシタマチを想いながら。(早野グループ「MUH」16号 1998・4・1)
※写真:昭和30年代の甲府オリオン通り







2008/10/20 15:38:56|甲府
甲州道中甲府柳町宿(甲府市中央)
 甲州道中(街道)は名のとおり金手(かねんて)で直角に南に折れる。八日町の通り(現城東通り)を直進して、穀問屋や紙・肴の問屋が並ぶ一丁目のはずれ、印傳(いんでん)屋のところ(信号「中央」)が「札(ふだ)の辻(つじ)」の高札場で柳町宿(しゅく)の入口である。
南北に交差する道が魚町通り。

 その先が「八日町見付(みつけ)」(「NTT西」)。
真っ直ぐ進めば甲府城の二の堀と八日町御門だが、街道は南に折れる。
南北の通りの北側は柳町一丁目。
武田信玄の頃の金座の一つで、江戸期、甲州金鋳造を唯一公許された松木家が、正徳年中(十八世紀初め)頃、人馬継ぎ立てのための問屋場(といやば)を引き受けていた。
問屋場が加藤家に替わり、三丁目に移ってからは旅籠(はたご)屋が林立したが、経営に苦しみ、飯盛女を置かせてくれるよう度々願い出ている。

 見付を南に折れれば宿の中心。
旅人の休泊のほか人馬を継ぎ立てて通信・運輸の手段を提供するのを大きな任務とし、公用の伝馬も初め五〇匹、後には二五匹を常備した。
皇女(こうじょ)和宮(かずのみや)の下向(文久元年)あるいは第二次長州征伐(慶応元年)のように、中山道や東海道などの他郷に人馬を提供する「助郷(すけごう)」も負担だった。
大きな穀商も軒を並べ、紙・塩問屋、信州の酒問屋、両替屋、太物(ふともの)屋もあった。
旅籠は安永の初め(十八世紀末)には三二軒を数えたが、維新で激減し、明治四年には一八軒となっていた。

 宿に入ってすぐ東側が本陣と脇本陣。お茶壺道中の採(さい)茶使(ちゃし)を泊め、参勤交代では信州の高島、高遠、飯田の各大名を投宿させた。
間(あい)には武家や町人、芸人も逗留(とうりゅう)する。
両本陣は宿の民政にかかわる届、願に奥書捺印をして奉行所に取り次ぐ役も負った。
明治四年の記録では、本陣の敷地は間口一五間(けん)、奥行二〇間、建物は一六七・五畳、二一間(ま)だった。

 『甲府略史』(甲府市役所・大正七年)によると、甲府柳町本陣は柳沢治世の頃(十八世紀初め)から深沢氏が勤め、八左衛門、藤右衛門と襲(おそ)って、幕末の頃は藤井屋深沢庄太郎の代だった。
小説『楢山節考』の作家・深沢七郎の旧宅である。
維新後宿駅制度も廃され、売り食いで暮らしていた本陣・深沢家の祖父は終生ちょんまげを切らなかった。
すぐ上の兄までは甲府生まれだが、七郎は一家が石和に転居してから生まれた四男坊である。
建物は戦前まで柳町に残っていた。
脇本陣は維新後も「佐渡幸」として旅館を営んだ。







2008/10/20 13:11:33|甲斐の夜ばなし
おちょんの寝床
 江戸の中頃のお話でございます。

市川大門の真ん中にある宝寿寺の住職は「後家殺し」の異名をとっておりました。

 亡き夫の回向で寺に出入りしていた後家のお千代、通称「おちょん」は小股の切れ上がったいい女でございましたが、いつの間にやら住職と妖しい間柄になってしまいました。

 これだけでもけしからぬのに、住職はこれも渋皮のむけた喜八の後家ともできてしまいました。

 住職は二人の後家さんをかわるがわる呼んでは、白昼堂々、庫裏で懇ろにぞれぞれの亡夫の供養を行っていたということでございます。

ところが、いつしかそれぞれの後家さんに互いのことが知れ、嫉妬の念から大げんかが起こったと言うことでございます。

住職はこんな醜聞が檀家の耳に入ったら大変だと慌てだし、市川大門に寄留するさる剣術の先生に二人の後家さんの説得を頼みました。

喜八の後家は夫に対してもとんでもないことをしでかしたと悔いて、住職と手を切ることを承知しました。

ところが、気の強いおちょんの方は収まりません。
剣術師の話に激高するばかりで、泣くは、悪態をつくは、つかみかかるはで手が付けられません。
かっとした剣術師はおちょんをその場に斬り捨て、田んぼに亡骸を放置していずこともなく消え失せてしまいました。

すべては代官所の知るところとなり、破戒の極みの住職は死罪、喜八の後家は一方の当事者としていったん拘束されたものの無罪放免ということになりました。

 その後、市川の村には愛欲に狂い最期には田圃に棄てられたおちょんを種にしてこんな唄が流行ったということでございます。

 おちょんの寝床田圃なか
 青柳の権現様は宿のなか

 富士川を隔てた増穂の青柳の権現様は縁結びの神様でございますから、皮肉なものでございます。(市川三郷町)







2008/10/20 13:06:01|文学
山本周五郎の出自
 山本周五郎(本名・清水三十六(さとむ))は出自を語ることを潔(いさぎよ)しとしなかった。

「日本のような狭い島国で、自分はどこそこ県人だ……などとケツの穴の小さいことを言ったって始まるかい」
が口癖だった。
強いて聞かれれば、生まれは山梨県北巨摩郡大草(おおくさ)村若尾(現韮崎市)、武田家の御倉(みくら)奉行だった清水大隅(おおすみの)守(かみ)の子孫だと言った。

私の家は伝統の古い武家だったそうで(略)五つの年に袴(はかま)着(ぎ)の式というのをやらされ、七つの年には切腹の作法をやらされた(「酒も食べ物も」)

ところが、亡くなった翌昭和四十二年、山梨県立塩山商業高校(現塩山高校)の文芸部の調査でこの事実は訂正された。
彼は明治三十六年六月二十二日、山梨県北都留郡初狩村(現大月市)に生まれていたのだ。
祖父伊三郎の代に一家は大草村の屋敷を手放し、初狩に転居していた。
竜王(現山梨県甲斐市)の出で初狩の機屋に奉公していた母親のとくは、父清水逸太郎と恋仲になるが、伊三郎が結婚を許さなかった。
やむなく土地の奥脇家の長屋に住む大伯母の家の馬小屋を借り、ここで三十六が呱々(ここ)の声を挙げた。

三十六が四歳の明治四十年八月、連日の豪雨で東日本は大災害を被る。
初狩でも二十四日午前七時、南の高川山と同心ヶ岳に挟まれた寒場沢(かんばざわ)が崩壊、山津波となって沢を駆け下りた。
土石流は七、八回も襲い、五〇戸が土砂に埋没、三〇人が行方不明になった。
三十六の家族も本人と母、叔父、他出していた父親のほか全員が泥流に呑み込まれた。
一家は借金を棒引きにしてもらって東京へ移っていった。

周五郎が死ぬまで大草生まれの武田遺臣の末裔(まつえい)にこだわった理由は分からない。
彼には山梨を舞台にした作品が少なくない。

「明和絵暦」「甲府評判記」「無頼は討たず」「春いくたび」「夜明けの辻」「戦国太平記」「米の武士道」「武家太平記」「甲信の春」「山彦乙女」「夜霧の半太郎」など。(福岡哲司)