新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2013/04/21 12:46:14|甲府
甲府朝日通り・花水木祭り

子どもの頃の自分には、朝日通りというのが甲府の「町」への入口だった。
そこには、文房具屋、バイク屋、写真屋、餅屋、レコード屋、帽子屋、洋食屋、琴三弦屋は当然、本屋も3軒、古本屋が2軒、映画館だって2軒あった。
年に1,2度ここに寄り道するのは、甲府の「町」の匂いを嗅げる「上」の部類だった。
子どもにはあまり関係なかったが、通りを上りきったところと下りきった鉄道のガードの近くに少々いかがわしい呑み屋街もあった。
大学生くらいになって、坂上の呑み屋街の何軒かには御厄介になった。
駅から向こうへ行くなど、自分には「特上」の「祭り」のようなものだった。

ガード付近から駅前まで、おそらくは戦前からの、車馬が滑らないためだろう、石畳が敷かれていた。
この思い出を語る人が少ないのは、甲府にも田舎もんが流入していて、知らないのかもと思う。
残念である。
通りは、陸軍の甲府連隊に通ずる「門前町」だったのだ。
現在の国立病院から緑が丘のグランド、北は山梨大学のあたりまで、連隊と練兵場が広がっていた(はずだ)。
私自身は、いくつか残った連隊の兵舎や防空壕、弾薬庫・浴場跡、グランドに整備される頃の練兵場の土塁や塹壕を辛うじて覚えているくらいなものだ。
それでもこの練兵場を舞台とする太宰治の『畜犬談』とか読むと、あの頃の暗がりがそぞろ偲ばれて、懐かしい。
あるいは『I can speak』とか『美少女』。
それぞれの小説の舞台やモデルまで目に浮かぶ。

今日は高齢者の夫婦連れなどがずいぶん西から朝日通りを目指して歩いているなあ、と気付いた。
通りには、タープが立ち並んで、年に幾日も見ないほどの群衆でびっくりした。
そういえば、先日のローカルニュースで、
「『花水木祭り』も、今年は珍しく花と葉が一緒になっている」
などと言っていたのを思い出した。
スーパーの駐車場に車を置いて、上から下へ、下から上へ、通りを歩いてみた。
「祭り」は、障害者授産施設などのパンやクッキー、手芸品、リサイクル品などが多い。
幼稚園にガールスカウトのバザー。
焼そば、焼鳥。
これらも微笑ましい光景ではあるが、たちまちに売り切れ、店じまいになりそうだ。
また、昔からの地元の朝日商店街がカタチばかりの参加であるのは、少々寂しい。
花水木の頃だけでなく、毎月でもやればいいとは思うが、商店街の人々がこれだけ老い、訪れる人々の腰が曲がり、「祭り」がボランティア頼みではそれも難しいか。







2013/04/20 15:04:10|学習指導と学校図書館A
Q&A教員と司書・司書教諭
大学の講座「学習指導と学校図書館」が始まった。
講義後に出された質問やあまりひどい勘違いは、次の時間に話す。
割合時間がかかるので、ある年はQ&Aをプリントにして配ったこともある。
これはこれで、重い負担だった。
Q&Aを話し、できれば、その内容を聴講者が見られるカタチにしておければ理想的だ。
これは、テキスト『図書館が元気になれば学校が変わる』の、ネットを借りた増補版でもある。
できるだけやってみよう。

あなたは教職を取りづらい学科かと思います。
司書教諭資格は、教員免許と併せて、学校組織において活かされるものです。
だから、教育方針も、教材(教科書等)も、学校行事も、つまり学校の教育課程全般を分かっているはずです。
これを前提に、司書教諭は教職員と共に、その学校の教育活動における図書館利用を工夫・促進してゆきます。

司書は現行の法律上は、公共図書館中心に配置される専門の事務職員です。
講義でも触れたように、図書館がどういうメディア(資料)をどのように組織化しているか、よく分かっています。
ただ、残念なことに、司書の正規職員としての採用は、全国的にきわめて少ないのです。
司書は、メディアの組織化、活用についての専門職ですから、企業や研究機関の資料・情報部門から書店における読書相談、本ソムリエ(色々な呼称があるようですが)等、多様な職種に就ける資格です。

司書は事務職員ですから、通常学校の職員会議には出席しません。
この事態も、考えねばならないと、私は思っています。
司書自身も謙虚な人が多いように感じます。
善かれあしかれ、必要とされなければ、学校の教育課程のことを知ろうとしません。
まして、司書が正規職員でなかったら、どうでしょう?
しかも、とても忙しい職種でもあります。

気になったのは「教諭においては本の場所が分からない」という発言です。
司書教諭ならもちろん、教員なら、図書分類(日本十進分類など)、装備(ラベル等)、排(配)架などは当然知っていなければなりません。
学校図書館の学習利用を促進するためにも。
教職員にこの意識が薄いことが、学校図書館活動の充実・促進を拒んでいます。
ひいては、学校教育の中で、子どもの自発的な学ぶ力を育てることが、この国ではいつまでたってもできないのです。

教員について大事なことは、学習活動に学校図書館を必要とし、司書との「協働」を必要と考える意識です。

両方の資格を持つこと。
これができれば、仕事でもプライベートでも、あなた自身の情報取得・活用のための大きな力になることでしょう。

学校図書館には、司書教諭と司書の両方の配置こそが理想で、十全な活動の前提となります。
もちろん、法制化された正規職員としての司書です。
全国でこういう「運動」は地道に行われています。
資格のない教員、保護者、ボランティアを、名目上、学校図書館に置くのなら、せめて児童生徒を受容できる人、読書・本を愛する人であってほしいのです。
「誰でも」配置すればいいと言うものではありません。







2013/04/18 9:03:25|甲府
桜餅
以前勤務していた高校の正門からバス道へ出ると和菓子屋があった。
ある時期になると、桜餅を切りだめというのかへ入れて、7,80個も学校へ持ってきてくれる。
「どういう訳か」と職員に聞いたら、「なにあそこの店は、桜の花期が過ぎて葉桜になると、例年本校の外周の桜の葉を摘んで塩漬けにしておくんですよ。
桜餅をくれるのは、その礼という訳です」という。
なるほど、本校は市内では比較的若い創立の学校だが、地域とそういう結び付きがあるのか、とうれしくなった。
和菓子屋さんの気持ちに感激して、私は、その後、公私の茶菓子を何回かそこから仕入れた。
もちろん余計なおしゃべりもしなかった。

この学校に在任中、市の選挙管理委員会からだったか、国政選挙の投票所に施設の一郭を貸してもらえないかという打診があった。
市内で1,2というほど、1投票所に当てられている地域が広くて、高齢者を含めて選挙民が苦労している、という。
校長は不愉快そうで、「ここは小学校じゃないんだ、県立学校だぞ。学校の教育活動にも間違いなく支障がある」と話に乗る気配はない。
考えた末、私は校長に言った。
「国政選挙も、あって3年に一度。
甲府の人間として申し上げたいのですが、たとえ文化創造館一つであっても、本校の存在というものを地域の方々に知ってもらえるのは、決して無意味ではないはずです。
本校はバス道から引っ込んでいるし、学校の歴史も比較的若いこともありますし」と。
「そう言うんなら」と再考した校長は、「とにかくうちの時間外活動や課外などに一切支障がないように留意しろよ。あるようなら即座に辞退すると伝えよ」と言った。

どういう訳か、その頃、政治的流動の時代で、それから毎年国政選挙があった。
それでも、地域と学校という間柄を考えると、この措置は間違っていなかったと思う。

自宅の向かいの高校からは、長時間太鼓をひっぱたく音や応援團吹奏楽部の演奏、生徒の吠え声、何通りもがなっている応援歌が、風に乗って流れてくる。
ああ、あの季節か。
新入生を脅かし、校歌はじめ数々の応援歌や応援の型をたたき込む応援練習だ。
3日くらい続くはずだ。
実は学校への帰属意識を持たせたり、団結心を養ったりの狙いもあるのだが、こちらの方は実効があるかどうか。
ご近所も、太鼓の音やブラスバンドの練習、学園祭など、たいていの方は理解・我慢してくれている。
甲府城内からこの地に学校が移ってきて90年にもなるんだから、とでもいうのか。
学校も地域の「迷惑施設」にならないよう、仲良くしなけりゃ。







2013/04/13 18:58:09|文学
死せる孔明、生ける仲達を走らす

「ホトトギス」に次ぐ我が国第二の規模と言われた俳誌「雲母」にも、知る限り二度分派騒ぎがあった。
犬塚楚江の「俳句と旅」誌創刊時と石原八束の「秋」誌創刊時だ。
前者は飯田蛇笏の時で、後者は、「雲母」を飯田龍太氏が引き受けた時だと思う。
八束の父石原舟月は生涯「雲母」に身を置いた。

龍太氏「雲母」を終刊し、編集同人だった広瀬直人氏が「白露」誌で後継した。
広瀬氏、病臥し、井上康明氏により「郭公」誌が後継した(かに見えた)。
最近、「雲母」時代の、やはり編集同人だった保坂敏子氏を中心に「今」誌も創刊された。
創刊号には、やはり「雲母」編集同人だった故福田甲子雄の特集を組んでいる。

県立文学館長が近藤信行氏から歌人の三枝こう之氏にバトンタッチされた。
三枝氏の就任はいいことだとは思う。
が、人選、決定の過程で「?」という感じがした。
地元新聞の氏のインタビューを読んで、「なるほど」と思い、古い中国の故事を思い出した。
「死せる孔明、生ける仲達を走らす」

文芸の世界に、人間関係が入り込み始めるとどうにもいやらしく、厄介なことになる。
甲州名物「親分子分慣行」は、虚子にかなりひどい目に逢っている飯田蛇笏さんはもとより、龍太先生も福田氏も最も嫌ったことだったと思う。

間もなく甲子雄忌。
  わが額に師の掌おかるる小春かな 甲子雄
この句を遺作とし、句集名を『師の掌』とされることを、この師弟は果たして望んでいただろうか。

写真は山梨市の国宝清白寺仏殿といわゆる「緑の桜」衣黄。
桜と言っても、白昼夢のようだ。







2013/04/11 14:28:31|アート
ラファエロをこれだけ観られるとは

「バブル」が弾けたと聞いた時、これから海外の佳い絵を観られるのも難しくなるのではないかと心配した。
けれども、今、エル・グレコが観られ、ラファエロ・サンツィオが観られる。
まことにご同慶の至りである。
とりわけ何日も旅行することのできなくなった我が身にとっては、少年の頃、雑誌の口絵を切り取っては、訳もなく洋服の箱にためていた「泰西名画」を目前に感じられることは、とても幸せである。
今がナントカミクスという変な名の「ミニバブル」だと言いたいわけではない。
むしろ、今は、「嵐の前の晴天」と見えるし……。

それにしてもヴァチカンから、フィレンツェから、パリからよくぞ借りてきてくれました。
堪能しました。
「大公の聖母」や「聖家族と仔羊」は気品があって、堂々としていて、間違いなくいい。
後者はプラド美術館以来の再会ではあるが。
これに比べれば、今度の企画でも1パート作っている「W 継承者」とされているジュリオ・ロマーノとかベリン・デル・ヴァーガとか、教会でくれる聖母子絵葉書(カード)のように見えてくる。
どれもこれも個性がないのだ。
ほかにも、モデルの個性がよく出た「無口な女」とか、晩年のラファエロが登場する「友人のいる自画像」を観られたことは収穫だった。

それにしても、若きラファエロの細面のイケメンぶりを再認識した。
一人の男としては、繊細さを見るか、チャらさを見るか、支持の分かれるところだろうが。
貴族や聖職者に「可愛がられた」のも無理のないはなしだと思う。
37歳という夭折も、ここらから説明する説もあるという。

芽吹き始めた公園の若葉が美しかった。
温かく、歩行も楽だった。