新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2013/02/14 9:17:17|本・読書・図書館
改めて武田泰淳すごい!
去年出た文庫版だが、必要があって武田泰淳の作品のいくつかを読み直した。
で、やはり、すごいと再認識した。
中公文庫版『にせ札使いの手記−武田泰淳異色短編集』
筑摩の全集21巻以外でも気軽に読めるようになって、とても結構だ。
それにしても、この副題のつけ方はなんとかならんもんか、読者は読み方を誤る。
あるいは、若い読者なら、文庫本の選び方を誤る。
やはり中央公論というものだ。
それはいかにも残念だ。

今回特に改めて注目したのは表題作の「にせ札使いの手記」。
手記の主「私」=丸木・ヴァレンチノが深沢七郎をモデルにしていることはよく知られているが、作品全体が、深沢を取り巻く当時の文壇、しまいには「文学というもの」のニセ札性をテーマとしていることを、どれだけの人が知っているだろうか?

肝心なところは「猫町」第4集掲載原稿までとっておきたいが、まずはこの作品が「風流夢譚」とその後の「事件」で深沢を見殺しにし、殆ど抹殺した文藝ジャーナリズムへの強烈なイロニーであることだ。
文藝ジャーナリズムは作中の「源さん」として現れる。
深沢をスケーップゴートとして扱われる作家は「私」だ。
「風流夢譚」を皮切りに文学作品は、「源さん」に「私」が使うことを強いられている「ニセ札」。
38年6月「群像」掲載作だが、当時、唯一で真面目な、けれどもユーモラスな深沢掩護射撃だったろう。

久々、感動したのは表紙のせいばかりではない。

七郎論の陥穽より、武田泰淳をあちらこちら拾い読みがしたくなってきて困る。
クリニック通いを除けば、時間があまりないのに。







2013/02/13 13:36:40|雑誌「猫町文庫」
深沢七郎論
「猫町」第4集に予定していた深沢七郎の『甲州子守唄』についての作品論が、一応最後まで行った。
「『甲州子守唄』の『にせ札』性」と題をつけようかと思う。
題で驚かすのも手だ。
今のところ25枚程度だから短い。
自己採点すれば30点というところ。
もう少し手直しして50点まで持ってゆきたい。

写真は中公文庫版







常識
学歴の高い人におうおうにしてびっくりするほど常識のない人がいる。
殊に人文系や社会的な知識だ。
偏差値の高い、超一流大学の、超一流学部を出た人なんかだ。
おうおうにして彼らの職階や影響力が高かったり(高かったことがあったり)する。

「そりゃそうだよ、ゲーテみたいな人はいないよ。彼らは受験以外のことはしてこなかったんだから」
とも言って済ませられない。
ことは「教養」なんて高級なレベルじゃなく、クイズ番組程度でもなく、義務教育の「公民」で教わる程度の知識たちだから、一体どうなっているのかと思う。

しかも、臆面もなく、ブログその他で人文系や社会的な課題について発言したり評論したりしている。
みっともないし、気の毒になってくるから、誰か言ってやらないか、違うよ、発言を削除した方がいいよ、と。

まさか、まさか自覚のない認知症?
毎日、一日中、町中をさすらっているように、客観的な自覚がなくなっても使えてしまうSNS(ネット)の仕組みというのも、困りものだし、残酷でもある。
「書く力」「読む力」もますます大事だし。

こういうブログその他を目にすると、彼らの専門の分野についての見解も怪しくなってくる。
大丈夫なのだろうか、と。

後期中等教育の、いや、進路指導の現場にいた自分自身の責任も感じるというものだ。
SNSの利用について、あるいは発言について、自戒もしなけりゃー。







ひとり旅
昔からひとり旅も多かった。
だから、「お寂しいですね」と余計なことを言われたり、
「シャチョウ、コレイルカ?」と小指を出されたり、
「要らない」と言うと、
「ジャ、コレカ」と親指出されたりする。
「そっちはもっと要らない」と言うと、理解不能な顔をする。
後半の話はバンコクでの体験だ。
そういう同胞も少なくないということだろう。

「ハロン湾行キマショウ?」
「いや、いい」
「世界遺産ダヨ。モウ行ッタカ?」
「いや、行ってない」
「ジャ、行カナキャ」
「いや、行かない。伊豆も松島、九十九島も見てるから」と言うと、これまた理解不能の顔。
これはハノイでの話。

クロックスのサンダルにショートパンツ、サングラスでチャオプラヤー川をアユタヤまで遡る。
普通はバスで直行というところ。
船上で美味くもないランチを食べて、アイスカフェオレかなんか飲んで変わりゆく川岸の暮らしを眺めていると、
「旅慣れていらっしゃるんでしょ?」
これは日本人のヤングを過ぎたへんのカップル。
とんでもない、ぼんやりしているだけでさー。

「あなた、あなた」と突然の日本語。
「はい?」と振り返れば、坂の途中に中年の日本人。
「この街に留まって、絵を描いています」と自己紹介。
「はあ」
「この真昼間歩いていると、あなた、日射病になりますよ」
「はあ」
「街へ行くので、ご案内できないが」
「ありがとう、でも、けっこうです」
スペインはトレドの路地の中のこと。
喫茶店もレストランも涼しくてよかったけれど、迷い歩いた街路はフライパンのようだったな、確かに。
壁の街「空山人を見ず、ただ人語の響くを聞くのみ」という感じもあったし。
案の定、次の日からあげたり、下したり。

今や遠ぱしりのできなくなった身の上が紡いでは楽しんでいる回想だ。

写真:チャオプラヤー川の船上から







2013/02/09 15:54:58|ことばグルメ
あこがれを知る人だけが
「猫町」に出稿を予定している人から、のたうちまわっている苦吟ぶりの伝わってくるメールをもらう。
締め切り?
それもあることはあるが、造ることについては、相手がのたうちまわっているのだから、時間も金銭も体裁も言ってはいけないという厳粛な気持ちもある。

温かいが風の強い日。
青空を見上げながらバーバラ・ポニーの透き通ったソプラノでシューベルトやバッハを聴いて、また、「ミニヨン」を引用したくなった。
低い声で朗読したくなった。
ああ、セビージャのアルカサルのパティオよ!
「あこがれを知る人だけが……」
ちょっと気障か。

ミニヨンの歌  ゲーテ(新声社/森鷗外訳)
   其  一
レモンの木は花さきくらき林の中に
こがね色したる柑子〔かうじ〕は枝もたわゝにみのり
青く晴れし空よりしづやかに風吹き
ミルテの木はしづかにラウレルの木は高く
くもにそびえて立てる国をしるやかなたへ
君と共にゆかまし

   其  二
高きはしらの上にやすくすわれる屋根は
そらたかくそばだちひろき間もせまき間も
皆ひかりかゞやきて人かたしたる石は
ゑみつゝおのれを見てあないとほしき子よと
なぐさむるなつかしき家をしるやかなたへ
君と共にゆかまし

   其  三
立ちわたる霧のうちに驢馬は道をたづねて
いなゝきつゝさまよひひろきほらの中には
いと年経たる竜の所えがほにすまひ
岩より岩をつたひしら波のゆきかへる
かのなつかしき山の道をしるやかなたへ
君と共にゆかまし

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