新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2013/02/08 15:47:13|ちょっと昔のこと
激励
この時季、しばらく前の普通科高校では、三学年の担任が手分けで生徒の受験の「激励」のために現地に行ったことを思い出す。
私大でも国公立大でも(当時の)、学年の子どもの受験者の多い大学学部の受験日に合わせて出かけるのである。

自分のクラスの受験数の多さにもよるが、行く先はある程度希望が効いた。
東京都内、東京近郊、筑波、仙台……と迷った挙句、私はたいてい(三学年になる度)金沢を希望することが多かった。

金沢でも文系学部と理系学部とでは受験キャンパスが違う。
文系の学部が多い自分のクラスは、夜のうちに喫茶店に集めてレモンスカッシュでも飲ませて「がんばれ! やればできる」「乾燥しすぎても駄目だから、ホテルのバスはお湯を張っとくように」みたいな激励や指示をする。
翌朝は、雪の舞い散る医学部キャンパスの入り口にたって、入場する理系クラスの学年の子どもを迎えた。
市内で買い求めた「勝栗」をひとつかみずつ渡しながら。「落ち着けよ!」と。

東京の私大などは何十人から百人も受けるし、道路が真っ黒になるほど受験生数も膨大だから、学年の子どもに遭遇できれば僥倖というほかなかった。

子どもたちが受験場に入ってしまえば、自分の用たしをしたり、軽く一杯やったりした。

こういう激励に効果があったかなかったか判然とはしない。
しかし、何といっても田舎から各地に受験に行く子どもたちである。
激励する側の自己満足かもしれないが、彼らが少しは孤独感を低減して、実力を出してくれればというロウバシンだけだった。

後々社会人となった生徒から、あの時の「勝栗のおかげ」みたいなことを言われると、「あの後、兼六園に行って、近江町市場で土産を買って、駅地下で煙の出ない焼肉?を食べて帰った」なんて言い出せもせず、目を白黒させていた。
遠方の受験地へ教員が出かけてゆく「激励」は10年ほど前からなくなった。
色々な意味で「余裕」がなくなったこともある。

しかし、センター試験の会場入り口の幟旗とか、チョコレート配りや降雪で遅刻寸前の受験生の光景などを報道で見るたびに、ハラハラして、今でも人情は変わらないなと思う。
受験態勢の中にも、当然、微笑ましい師弟関係は今も昔もあるだろう。
そこでは体罰は、まず、聞いたことがない。
少なくとも周りでは。
いや、正座ぐらいは、させたかもしれない。







2013/02/07 14:51:44|MY FAVORITE THINGS
シャーペン
 ある時機から生徒の筆箱に「シャーペン(シャープペンシル)」の本数が目立ってくるようになった。
そのころから、物を考えるときの彼らは、シャーペンを親指の周りで器用にクルリクルリと廻し始めた。
私もこっそり練習してみたが、とてもあんな風にはいかないのでやめた。

シャーペンで書かれたものは読みづらいので、「止めればテストの点数も上がるだろう」とか、「使用禁止」とか言っていたのが、いつしか「提出物には使用禁止」「筆記具のスペア」のようなニュアンスで生徒に伝わるようになった。
マークシート方式のテストが増えてくればシャーペンは不都合だろうと思ったが、殆どの子どもがクリアしていった。
こちらも気弱に「芯はHB以上にしろよ、できればBだ」などと忠告せざるを得なくなった。

子どもは鉛筆を削るナイフを持ち歩かなくなり、親も削ってやらなくなり、教室には鉛筆削り、それも電動のが常備となり、あの六角形の鉛筆は、次第に分が悪くなっていった。
新学期に鉛筆をそろえる光景もなくなったのだろうか。
肥後守でも、刃を付け替えるナイフでも、カッターでも、鉛筆をサクサク削る時の快味、ぷーんと鼻先に立ち上がる香気。
芯をどこまで伸ばすか、そこに続く裾野の斜面をいかにきれいな六角錐にできるか……。
そんな楽しみもなくなったのだろう。

シャーペンを嫌っていた自分も、今や無精を決め込んでコンビニのシャーペンを愛用しては、しょっちゅうなくしている。
シャーペンも安くなり、百円程度に、今や百円で数本買えるまでになった。
書いている文字も変わってきたような感じさえある。







春待月
節分、甲府じゃ「ダイジンサン(大神宮の節分会)」と言うのが普通だが、その節分も過ぎて、もうすぐ湯村塩沢寺の厄地蔵祭という頃になって、一日二日ほど温かい日があった。
人間なんて勝手なもので、「さすがに立春だね、三寒四温と言って、こうやってだんだん温かくなるのかね」などと言い出す。

で、「寒波が南下してくるから、明日は雪だ」などという予報にがっかりしたりする。
本当は盆地ではこのころが一番寒いのに。

予報のとおり、地べたが冷え込んできた。
暦を見てみたら、立春の翌日の今日2月5日は旧暦12月25日だ。
「年の内に春は来にけり」とは、まさにこのことだ。
まだまだ大雪が降ってもやむを得ないと思い知る。

見れば、我々が通称「西山」と言っている赤石山脈も寒々しく重苦しく、本当に雪模様だ。
明日は連山真っ白になるかもしれない。
何かとあわただしい時季である。
車で通勤の人は気をつけて。

リタイアしてしまった自分でさえ、昨晩は一学年の担任に発令される夢を観た。
忙しくなるけれどもこれも新鮮だなどと思ったところで目が覚めた。
なんでこんな夢を観たのだろう。
部活動の体罰やらいじめやら、教師問題やら、学校が報道されることがしばしばあるのが頭にこびりついているのかもしれない。

ところで、「西山」は「南アルプス」ともいうし、連山の中には「北岳」もある。
人間の位置感覚なんてあやふやなものだ、という畏友で作家三神弘の名台詞を自然と想起する。

「一年を去年とや言はむ今年とや言はむ」
時間の区切りもあいまいなものだ。
人の「立場」なんてさらにさらにあいまいだ。







2013/02/03 9:18:32|山梨
嶋田武『甲州歳時記−盆地有情』
地域すなわち山梨や甲府の古今の歳時記、地誌の類を読むことが好きだ。
「古今」というから、江戸時代の甲府城勤番の武士や甲斐を訪れた旅人の見聞記なども含まれる。
今は失われた風物や慣行、祭礼、人情、季節観などがそこから窺い知れるからだ。
改めて足元の美観、美習等を見直してうれしくなることもある。
また、いにしえの地域の文化人の底力を見直すような気にもなる。

古書店を覗いたり、コピーを取ったりしているうちに、本の類も自然とたまってきた。
季節の変わり目や、市外へ出る時などに、時々はひっくり返しては楽しんでいる。
折があれば、こういった地域の古今の歳時記、地誌の類を紹介してゆくのも楽しいのではないかと、かねがね考えていた。
今日の一冊は、

嶋田武『甲州歳時記−盆地有情』昭和52年10月、柳正堂書店(甲府市中央)
装丁、挿絵はお馴染み須藤獏先生で、これも両先生の友情を感じさせるとてもいい雰囲気だ。

昼間は少しばかり温かい日かげのさす季節、今日も嶋田先生の本をひっくり返した。
嶋田先生は旧制中学、新制高校の先生で、文章家、蔵書家で知られた。
文学、登山、柔道……とまさに多趣味の文人で、古き佳き教師像の典型のような人だった。
著書に『甲斐の山々』(昭和17)『四季の山々』(昭和23年)『季節の窓』(昭和26年)『盆地礼讃』(昭和30年)等がある。

今日拾い読みをした一節に、「冬枯れの甲府城址」「寒稽古」などの文章があった。

、「冬枯れの甲府城址」では、甲府城址を楽しむには、春たけなわから初夏の雑踏の頃は軽佻でいけない。
青葉の候は美しいが、ベンチで居眠りをする人ばかりが多くて、遠方から見た幻想的な城のイメージが崩れてしまう。
石垣の蔦が紅葉する秋はあわただしさがある。
ひきかえ、真冬の城址は静寂そのもので実にいい。
先生はこう主張する。

「寒稽古」では、「土用の前に寒のあと」という古来の言い回しの通り、暑さ寒さの最も厳しい折の柔道の寒稽古に触れている。
また、甲府の上石田に住する先生が、冬の朝、風音に交じって聴きとめた近所の東中軒雲峰という浪曲師の寒稽古の声、その妻の三味線の音についても回想している。

こういう記述に触れていると、古ぼけた、しかし温かみのある地域出版の書物の味わいがしみじみと出てくる。







2013/02/01 13:56:04|雑誌「猫町文庫」
注目の記事
「猫町文庫」第4集に興味深い記事が追加された。

一つは、日中戦争に召集され、42日で戦死してしまった一兵卒の「戦場日記」だ。
日本中でどれほどこういった理不尽がまかり通ったことか。
その典型的な証言のようなドキュメントだ。

もう一つは、竹久夢二の港屋に勤め、そのミシン刺繍の技術で夢二の作品(商品)を作り続けた女性の回想録。
大正3年10月に開店し、2年ほどで閉店した、グッズ・ショップ「みなと屋」と周辺の男女、夢二のプライベートなど興味深い。
夢二の意匠の普及は、彼女や彫刻師の存在なくしてはありえなかったことがよくわかる。

取りまとめには、もう一苦労要るが、いずれも読者の関心をひく内容となるだろう。