山梨県立博物館の企画展「黄金の日々・甲斐の金山と越後佐渡の金銀山」が会期末なのであわてて駆けつけた。
大久保石見守長安も必ず登場しているだろうという期待もあった。このブログでも既にふれたが、彼は作家深沢七郎の実家の「過去帳」に「先祖初代」としてその名が書きこまれている。猿楽師の倅で、武田勝頼滅亡後に徳川氏にスカウトされ佐渡奉行、大老を勤めた。
見たところ、金銀山の開発、管理運営に限らず、徳川幕府初期、いや、徳川時代全般をつうじても、幕府行政の中で大久保ほど仕事をした人間はいないだろう。だから初代の大老なのだが、死んだ直後、墓を暴かれて裁判にかけられ全面否定、一族もろとも歴史から抹殺されてしまう。幕閣の内紛か、幕府の秘密を知りすぎたのか、個人的な蓄財をしすぎたのか、失脚の原因は謎だ。
彼が甲州街道の甲斐府中柳町本陣(深沢七郎の実家だ)の「先祖初代」である意味も、作家深沢七郎の資質とのかかわりもまだ説明されていない。事実として裏付けられるものは見つけられないかもしれない。
けれども、七郎の小説の作品論をしっかり書くことで抽象できるものがあるかもしれない、と私は勢い込んでいる。とは言え、トシや病のせいで既に相当頭の悪くなった私は、作品論作成にかなり苦労している。
今回展示を観て知りえた事の一つ。大久保長安が佐渡その他の金銀山代官所に武田浪人を多数「再就職」させていることだ。佐渡では出身身元の分かっている187名のうち33名が旧武田浪人で、出身者のうちの最大勢力である。
彼は、また、各地の金銀山の人、技術、運営のネットワーク、相互乗り入れを調節して、幕府財政の基盤である金銀を安定供給させた。
彼は様々な職名を持っているから、幕府体制の中にどれほどの甲州人を潜り込ませたか想像もできない。これまた、山本周五郎の『山彦乙女』ではないけれど、大きな勢力だったのではないかとも思える。一部の人たちには大変な脅威だったのではないか。抹殺もこのへんから考えられるかも。どこやらの社会主義国家と似ていなくもない。
長安の墓の一つは甲府尊大寺に作られた。尊大寺ははじめ武田の現金弊稲荷のところにあり、その後、今の城東の地に移っている。そこの長安の卵塔の日付(命日)も不思議なことのひとつである。