新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2012/11/28 15:31:05|文学
また、三好行雄先生のこと

「日本古書通信」1000号記念号中の記事で故三好行雄先生(初代山梨県立文学館長)を思い出した。川島幸希氏の「芥川龍之介の『鼻』の完成原稿について」(その2)を見たからだ。


山梨の文学館は、芥川龍之介の幼少年期から没後までの資料の所蔵では日本一である。芥川を母親代わりに育ててくれた伯母の保存がよかったせいである。特に小説の草稿類は多く、資料集として写真版で公開したものもある。これらの資料群が三茶書房店主(先代)の管理になり、昭和の終わりに山梨に来た。文学館創設の大きな理由の一つだ。


文学館創設準備をしている時、アドバイザーの一人に中堅の芥川文学研究者がいた。その学者が三好先生にこういう内容のことを言ったのである。


「これから芥川の草稿を思う存分見られて、お仕事(論文書き)がさぞ進むことでしょう」


とても羨ましそうであった。三好先生は、心外そうに、


「私は自分が優先的に芥川の草稿をひっくり返してみようなんて思いませんね。それに、もはや、作品論をそういうところ(研究手法ととれた)まで戻したくありませんんから」


ソフトだが、きっぱりとした口調だった。その時点で先生が到達している研究の立脚点の違い、視ているステージを明確に知った。


夏目漱石の小説『明暗』の草稿の束は、書きかけた草稿にペン先からインクを飛ばしているような反故断片たちだった。古書店からこれを所蔵しないかという薦めもあって、無益だと思ったが念のため三好先生にお聞きした。


「あまり意味がないでしょう、これはねえ。展示資料としてもよくないし」


とのことだった。その通りだと思った。その後もこの反故の塊は、まとまったり、ばらされたりして市場に時々顔を出した。今はどうなっているのか分からない。


「僕はね、生涯の最後に詩集を一冊持てればと夢想しているんですよ」


悪戯っぽい目つきで、こうも言われた。








2012/11/27 9:47:44|甲府
家が減る、人が減る

しばらく前から、市内に空き地が増えてきた。この頃は、その空き地の多くがコインパーキングになっている。この地方都市にそんなに必要か。一時のように、やたらアパートを造ってしまうという流行りも廃れたようだ。空家も多く、一人暮らしの高齢者も多い。


一人暮らしの果て、家族のところに行く、あるいは亡くなる……で空家になる。放置される。取り壊される。一部はコインパーキングになる。こういう変化が急速に進み、遠くない将来、この街は人家自体が減ってしまうのではないのだろうかと思える。人口ももちろん比例して減ってゆく。


商店ももちこたえられなくなって、次々に廃業する。住民が日々の衣食住の基本物資を手に入れる手段も限られる。町にひとつのスーパーや郊外の大型店に行けるうちはまだしも、高齢者が首を長くして循環の食品販売車を待つとは、何十年も昔の山里にかえったようだろう。


子どもは遠くの上級学校に行けば、この街に生活の本拠は作らない。職のことを考えると、作れという方が無理だ。


「市街地の活性化」と叫ばれて、街の「貌」を変えてみたり(土木工事だ)、様々なイベントが計画される。が、それも中心地で、数日「花火」のように持ちあがるだけだ。駅前開発とか、B級グルメ大会とか。まあ、期間限定のショッピングモール(貧弱な)みたいなもので、この街全体、周辺をも含めた「活性化」につながるはずもない。それでも、何もやらない訳にもいかないから、やる。大した効果はない。この繰り返しだ。


定着する人が増えるどころか、減ってゆくのだから。人家さえも。


若い人は刹那的、高齢者は自己満足的。皆、なんでもかまわない、今の自分さえ安穏なら、と。人と人と、地域と地域との「きづな」もない。これで地域そのものが浮上する訳がない。知らないうちに、人が死んでいたり、犯罪が起こっていたりする。


長期的な展望をもって人が定着できる施策をこうじなければ、もはやどうしようもない。そのための生活の資を得る職(雇用)。教育、医療、介護、福祉の体制も整えて行かなければならない。


このことを考え、動かしてゆく政治家・公務員というのは、テメーが収入や名声・権力を得るための「職業」ではないはずだ。無責任で、浅薄なジャーナリズムも含めて茶番のような「選挙ごっこ」にはうんざりする。








2012/11/25 10:21:35|アート
「バクダッド・カフェ」

アメリカ映画に出てくる街外れのドライブインが好きである。ちょっと思い出すだけでも、「バス停留所」「ナイアガラ」「バクダッド・カフェ」などの映画に登場する。時代差のありすぎる作品例だけれど。


エドワード・ホッパーの絵ほども洒落たものではないし、もちろん都会的な倦怠感もない。油臭そうな、埃っぽそうなチープな造りである。簡易宿泊できるモーテルが付属していることもある。木馬のような給油機からガソリンも買えるし、長距離バスの乗客なんかが旨くなさそうなコーヒーを飲んだり軽食を摂ったりできるのだ。


思うにこれは西部劇に出てくる、しょっちゅうトラブルが起きているちっぽけな街のちんけな酒場やサロンの20世紀版かもしれない。この姿を変えたものが、スターバックスやドトールかもしれないが、こちらは街中にしか作らないから、意味合いが違うか。


これが好きなのは、小さな空間の限られた時間に漂う粗野な人情味のようなものだ。ここには成功者はまず現れない。かつての栄華を語ったり、これからひと旗あげるぞというほら吹きはいても。あるいはお尋ね者もいるかもしれない。揃いもそろって金がないし、服装も妙である。脛に疵を持たない男も女もいない。


この人々が互いの胎を探りながら、あるいは知らんふりをしてはらはらするような言葉を投げかけ合う。そこにとても濃密なものが漂う。


新たに色補正をしたというミニ・シアター系の「バクダッド・カフェ」を観た。なんて筋立てもないのに、人の思いと思いとの交錯の面とても面白かった。ドイツ人のジャスミンの英語ばかりじゃない、登場する人々のものすごい訛りもいい。米国人の日常会話なんて、たいていこんなものだが、現場で言われたら、まず「?」となるような言い回しばかりだ。


ネットで見たら、「バクダッド・カフェ」というものを、「なぜバクダッドか」とか「どこのドライブインがモデルになった」とかについて徹底的調べている物好きな人もいて感心した。








2012/11/25 10:08:12|艶笑譚・日本
女房の精力を減退させる薬

 京の町を



「精力減退の薬を売ってくれー、精力減退の薬を売ってくれー」



と言って歩く男の姿を見ると、どうにもやせ衰え、衰弱していて、結核にでも罹(かか)っていそうだった。不思議に思って、ある者が、家に



「薬を売ってやろう」



と呼び入れて、



「あなたの姿かたちを見ると、精力減退の薬を望むとは、変ではないか?」



と訊ねると、男は、



「それには訳(わけ)があるのです。私は皆さんがご覧になる通り衰弱しております。けれども、妻が気力がありすぎますので、一服飲ませたいと思って捜しているのです」



と言ったという。

江戸小咄『醒睡笑』・拙訳








2012/11/25 10:07:22|艶笑譚・世界
見えちゃうわ

 赤十字社のある教室で、一人の女性の教官が女の学生たちに救急法の一般技術の講義をしていた。



「もし、服を着たまま水中に落ちたら」



と教官が学生に質問出した。



「なにを一番さいごまで身につけているべきだと思いますか」



 女の学生たちは絶望的にたがいに顔を見あわせ、とうわくして、教官の方を向きなおった。教官自身も、われながらみょうな質問をしたものだと困惑はしたが、なんとか彼女たちに適当なことを言ってやらなけれぱならないと思い、苦しまぎれにロを開いた。



「あのシミーズですね、もちろん、つまりシミーズを着ていますと、その下に空気がたまって、いわば浮袋の役目をはたすわけです。おわかりになりますか」



 教室の女学生たちは、一人のこらず部屋を飛びだしてしまった。

J.Mエルガード・高橋豊訳『セックスティーン』T(高文社)