新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2012/11/09 13:16:04|その他
学校公開日に

教え子のM君がやってきて、「休みが取れたので、同級生のA君とYさんの授業公開を観てきた」と言う。


AとYが同じ甲府一高に着任していて、学校では、この日、校内の活動や授業を公開していることはメーリングリストで知っていた。


M君は教職にある人ではないからちょっと意外な感じがしたものの、同級生というのはいいものだな、と感心した。聞けば、M君は保護者や教員仲間にまぎれて授業を観てきたらしい。かなり意欲的な面白い授業だったようだ。


それにしても最後に担任をしたクラスで高校教員の途に入った二人が、母校に同時期に着任するとは、ありそうでそんなにはないことだ。彼らも高校を卒業して16,7年になる。


私自身にも母校であり、勤務したことのある学校であり、家の目の前で60年も眺めている学校だから、照れくさくて私は観には行かなかった。


ただ彼らの噂話はそこはかとなくうれしい気がする。








2012/11/07 7:22:38|民俗・芸能
新美南吉「最後の胡弓弾き」の音色

『新美南吉童話集』のなかでも「最後の胡弓弾き」という作品がとりわけ好きだ。これは〈童話〉の域を超えて優れた作品だと思う。


木之助は小さい時から胡弓の音が好きだった。十二になって上手な牛飼いのところへ通って習い始め、旧正月になると従兄の松次郎と町へ門附に出かけた。太夫の松次郎が着物、袴、烏帽子で鼓、木之助はよそ行きの晴着にやはり袴で胡弓を持っていた。町には二人を可愛がってくれる味噌屋もあった。小さな村には何組かいて、上手な者は都会や信州へも行って稼いだ。


門附は次第に流行らなくなり、呑んだくれた松次郎は「もう止める」と言い出す。迷った挙句、木之助は一人で出かける。味噌屋の主は彼を歓迎してくれる。


木之助が病気をして二年間を置いて出かけろと、町の家には「諸芸人、物貰い、押し売り、強請(ゆすり)、一切おことわり、警察電話一五〇番」と張り紙がしてある。味噌屋では意地悪だった女中が中へ入れてくれるが、主は亡くなっていた。仏前で弾いて門を出る。


古物屋の前で、木之助は胡弓を売り払おうとする衝動に駆られる。30銭だった。末っ子のためのクレヨンを15銭で買うと、胡弓のことがしきりに悔やまれた。買い戻そうとすると今度は60銭だった。


「午後の三時頃だった。また空は曇り、町は冷えて来た。足の先の凍えが急に身に沁みた。木之助は右も左もみず、深くかがみこんで歩いていった」


何度も読んでいるが、私はこの童話の胡弓の音を「越中おわら風の盆」の闇夜で聴いたりした、どちらかと言えば哀切な音として聴いていたのである。さもなければ、牛飼いに5,6曲習ったというし、味噌屋の主が好んで鑑賞してくれたというから、芸術音楽としてのたとえば藤枝流の「鶴の巣籠」とか「蟬の曲」「千鳥の曲」『栄獅子」「下り葉」「唐子楽」といった雅なもののようにも受け取っていた。


ところが、「日本の放浪芸」というCDで、鼓、三味線と共に正月に門附をして歩く尾張万歳、三曲万歳を聴いてはっとした。これは「ちゃかぽん、ちゃかぽん、ぎーこ、ぎーこ、ぺん、ぺん」と至って陽気で賑やかなのである。元来、正月の祝福芸なのだからそうあるべきなのが本当で、聴きすすむと、鳥取の人形芝居の大黒舞も(三味線、胡弓、太鼓)、香川のはりこま(三味線と胡弓)も同じく、実に聴いているこちらの頬が緩むような、いかにもおめでたい芸だった。


私は分からなくなってしまった。25歳の作者が書いたこの童話のBGMを賑やか、それとも哀切、どちらに聴こうか、と。それとも、音曲が底抜けに明るいから、余計に状況が切なく感じられるのだろうか、とも。








大平原の雷光(中国)(旧稿)

 機内放送があった。日本を通り抜けた季節はずれの大型台風の余波を避けるため、ベトナムに向かう飛行機は中国沿海部からちょっと大陸に入ったところを南下して行くという。



 台風の吹き返しというのかかなりの強風にあおられる空域もあって、鶴マルのマークも古い三十年も前の型の日航機(ベトナム航空兼)は大丈夫だろうかと内心ひやひやしていた。



 時間と航路図を引き比べると広東から広西壮族自治区にかかるという辺りだろうか、窓の向こうがパッパッと明るくなる。窓から覗くと闇の中の右手、左手、中央と砲火のような光が上がっている。まさか砲撃戦ではない。大平原? のあちらこちらに雷が落ちているのである。音は無論聞こえない。貴州か雲南か、それとも四川? ひっきりなしに中国大陸のあちらこちらで大きな雷光が上がる。それに伴い地上の起伏のシルエットも浮かび上がっているようだ。



ひっきりなしに光る稲妻の中を日本の鶴はけなげに飛んでいる。



 夜間飛行に多少失望していた私はこのスケールの大きな雷光ショーに感動していた。いつかシベリアの人跡未踏? の原野の上を飛んだときにも感動というか、呆れたのだが、今度は中国大陸の落雷にも圧倒されていた。それにしても本当の砲火でなくてよかった。



 雷だって飛行機は強いはずだが、これだけ乱発されると内心は冷や冷やさせられた。

写真:ホーチミン霊廟(ハノイ・ベトナム)







四十歳からの海外の旅(旧稿)

学生時代以来、日本の各地は散々歩き回ったものの、海外へ行くことはなかった。関心がなかったわけではないが、学生時代は国内の貧乏旅くらいしか経済的には無理だったのである。それを日本のこともろくに知らないのに、海外をいわゆるバックパッカーとして歩くなんて大して意味がないなどと自分では言っていた。これも負け惜しみである。



勤め始めてみると、金は何とかなりそうだったが連続して休みが取れる時期がなく、海外へという気は起こさなかった。これまで自分なりのストイックで求道的な「旅」をしてきた者が、旅行社のツアーなどというものに乗っかって娯楽的な「旅行」などすることは堕落だと思うような気持ちも何処かにあった。何時の日か海外を自分なりに「旅」することも出来るときが来るだろうと思っていた。だから、当然、パスポートとか外国の金とか手に入れたこともなかった。



四十代の半ばになって、これまで自分が三日連続した夏休みもとらず、胃潰瘍を作り、痛風を起こし、血圧を二百まで上げて仕事をしてきたのは何だったのかと思うような仕事上の環境が発生した。私は今年の夏はしっかり連続十日の休みを取ろうと決めていた。それどころか、以後、自分は退職まで仕事のために私生活を犠牲になんかしないぞと心に決するところがあった。



私は初めて十年もののパスポートというものを取得し、さて、何処に行こうかと考え始めた。レジャー、娯楽としての「旅行」は嫌だと詰まらない意地があるものだからなかなか方面が決まらない。山や海、滝や川……自然景観それ自体を楽しむ習性も、自分には乏しかった。暮らしや人間というような部分にのみ興味があった。ハワイだのグアムなどとんでもなかった。歴史的、宗教的、民族的に複雑な、重層的と言えるような意味のある地域がいいと漠然と考えていた。色々考えた末にトルコかスペインと考え、歌劇『カルメン』が大好きだったからスペインにした。



宿も移動手段も全て自分でやる個人旅行が最も望ましかったが、自信がなかった。小さな旅行社の、宿も移動手段も確保してあるが現地では基本的に自由行動中心というプランを選んだ。マジョルカ島というリゾート地(と思っていた)のようなところが入っているのが少々気に入らなかったが、他には空きがなかった。



この時以来、私は海外の旅がずいぶん気に入ったのである。なかでもスペインは老後住みたいと思うほどになって、旅行後、スペイン語を習い始めたし、翌年もまた、スペインへ行った。トランジット含めて十九時間近い飛行機を乗り継いで。



マジョルカ島はリゾート地で自分には似合わないと思っていたのが、陽光もサイズも見物すべきものも食べ物も人も、ひどく楽しんだのはおかしいほどだった。



以後、国内の旅は仕事で出張するついでになり、殆ど毎年、海外へ出かけて行った。それでも、毎年、十日ほども出かける時間や費用は厳しかったので、勤めている間はアジアのいわゆる「近隣諸国」にしておこうと考えていた。マレーシア・シンガポール、香港、台湾、韓国、タイ、ベトナム等々だ。



そうして、十年もののパスポートを使いきろうという頃、体調を壊し、一回4時間の人工透析を週3度受けねばならぬ障害者手帳を持つ身の上となり、基本的には2泊以上の旅は不可能の身の上になった。私の海外旅行体験は十年で終わり、アジア以外はスペインしか知らないで終わりになりそうである。



けれども、私は、今、それほどフラストレーションを感じてはいない。海外でもセットツアーでも、「旅行」ではなく自分なりの「旅」をするのだと意地を張ってきたお陰で、私はおそらく余人の何倍も旅先を楽しんできたからだ。今に至るも語れる「旅」の成果や失敗も数多いし眺めるべき写真もある。文学や美術と結びつく回想の中で私の「旅」は無尽蔵だ。行けなかった土地を残念がる気持ちも殆どない。天人花の咲き誇るパティオでヒターノ娘との燃えるような危険な恋も想像上は自由自在である。


現実の「旅」は一日でも二日でも時空の許される範囲で歩き回ることができるだろう。これは自宅の傍らの川に沿ってどこまでも遡っていった時の「放浪」の最も原初的なかたちに、私は再び戻るだけだ。


写真:セゴビアの市の子らと








2012/11/04 10:53:05|深沢七郎
深沢七郎「甲州子守唄」のどこが「子守唄」なのか?

「楢山節考」の成り立ちは面白い。小説に先行して「楢山節」という、深沢七郎作詞・作曲の「伝承唄」風の曲があった。全体で何番まであるのか、歌われるたびに追加されたり、アレンジされり、おろぬかれたりしたから、全体は本人にも分かるまい。自然に増殖するから「節」だと言っていたのかもしれない。


「楢山節考」はこの唄を肉付けし、「はなし」として語った(騙った)ものである。


そもそも深沢七郎は、周囲に真偽とり交ぜた(というより殆どホラ噺)をすることを好んでいた。そうしなければいられない性癖があったと言ってもいい。彼は「語って」しまえば、それで満足だったのではないか。文字にしたり、本にしたりすることはどっちでもよかったのではないか、と勘繰ってみる。彼にとっては、語りも、彼の表芸だったギターと同様アドリブでどんどん増殖してゆくものだから、固定してしまうことなど考えられなかった。周りのもののびっくりした表情、怖がる様、これが楽しかったのである。文字にするしないは二の次だっただろう。


さて、「甲州子守唄」である。ここには先行する子守唄はない。作中にも唄が流れることはない。ではなぜこの作品が「子守唄」と題されたのだろうか? 手伝いのヒグマや後に養子になったヤギに「標題なんてオマン(お前)タチがつけろ」と言っていたこともあるというから、標題にさしたる意味はないのだろうか。いやいやミュージシャンであるかれが「節」だの「唄」だの着けるときは遊び半分ではなかろう。


今、私はそこのところで考え込んでいる。そうして、こんなことがこの作品を解くキイになるかもしれないと思っている。


「子守唄」は「五木の子守唄子守」や「島原の子守唄」のように、子守自身ののつらい心境を表白していることも多い。この小説では「オカア」だ。この小説の視点はオカアが中心である、そのことを「子守唄」と称しているのだろうか。


主人公にしても、石和の笛吹川の万年橋のたもとの荒物雑貨を飽きない零細な「百貨店」≒「家」だという人がいたり、普通に読めば倅の徳次郎だろうとも言う。主人公もオカアとして読んでみたらどうだろう。それは息子を思う母性愛とかいうようなものではなく、倅がどれほどアメリカで稼いできてくれるか、稼いできたら来たで、それをいかに長持ちさせるか気をもんだり、干渉してしまう。そのくどくどした(「口説き」という説法もあるが)心情こそ「子守唄」なのではないか。そして、大方の「子守唄」が残酷な結末を想像させるように、徳次郎の稼ぎは小説末尾の戦後、サッカリン二本に化けてしまうという悲喜劇に終わってしまう。


この辺りが、小説の名付けを解く突破口になるやも知れぬ。