新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2012/11/03 8:59:46|アート
榎並和春個展「どこか遠く」

案内をいただく。


どこか遠く ここではないどこかに本当に求めているものがある

恒例の待ちかねた山梨での個展。
こぎつけるのはさぞハードなスケジュールの果てだろうと拝察する。

いつぞやのテーマは「遠い記憶」だった。さらにせつなく向かうものがある。


たとえ、いくつになっても、様々失っても、「どこか遠く」の意識は持っていなければなるまい。「ここ」への「厭離穢土」的な違和感ではなく、みずみずしい憧れとして。


ハーパーズ ミルは地場産業センターかいてらすの向かい側。








2012/11/02 15:23:28|山梨
人とけものの領分

効果があるのかないのか分からないが、村外れの山に続く畑には、たいてい電気柵が巡らせてある。狐がのろのろと県道から藪に消えるのを車であわててよけた。山つきの村中の道では狸が車に轢かれていた。猿はあちらこちらで見かける。クマ出没注意の警告は、山の入り口でしばしば見かける。


人間様の世界が変になっているのだから、けものたちの世界がおかしくなっていないわけがない。もしや地震、津波、異常気象、原発などからの余波でけものたちの領分も安心できなくなっているのかもしれない。けもの的感覚を喪った人間は暑いの寒いのと「不適応」をかこつ程度だが。


それとも、山のけものが里に下りてくるのはとりたてて異常なことではなく、人との距離が限りなく近かった昔に戻っているだけなのだろうか?


「森のラーメン」という看板を見た。こういうものを喜んで食べる人もいそうだが、狩猟をやる知人もいず、ジビエと言えば、今や、ウズラ、鳩、鴨、鹿くらいで、クマ、(イノ)シシなどは苦手のうちに入る私は、興味はあるが、特に食べたくはない。


写真:左から千代田湖(甲府市)、須玉(北杜市)、同


 








「電子辞書」はありがたい

電子書籍の話をしていてピンと来ていない学生も、「電子辞書」に言い及ぶとハッとする。電子辞書も電子書籍の一つだし、かなりの割合で活用されている。彼らの多くは英和、和英で活用しているのだろうが、私は9割かた『広辞苑』だ。


以前から『広辞苑」はよく使ってきて、歴史上の事象や人物などについて急きょ知りたいという時の「小辞典」としても使えたから便利だった。編者新村出の訃報に際し「せめて香典くらい届けたい」とつぶやいた愛好者がいたというが、私も殆ど同感する。こういう思いのする本というのもそれほど多くない。


これが電子辞書に入って、利用度は飛躍的に高まった。バッグに入れて持ち歩きもする。ふと気になった言葉から多岐に言葉をたどってみることもある。古語辞典に及んだり、ブリタニカ百科に及ぶこともある。とうとう三台の電子辞書を備えたり、持ち歩いたりするようになっている。入院中に毎日思い出したり念頭に浮かぶことばや動植物があって、確認したり、同定するために、ベッド上で電子辞書をよく引いた。そのたびに新たな言葉や言い回しを発見して感嘆したものだ。


最近の電子辞書のバージョンはメモリのキャパがふえたせいか、家庭の医学やら世界の名作、日本の名作と、ややあらずもがなのコンテンツ満載だ。アラカルト方式で、必要な辞書を搭載する注文を受けてくれるとさらにいい。わたしだったら、内容の充溢した植物図鑑が持ち歩けると、まことに都合がいい。もちろん鮮明なカラー画像付き(複数枚)だ。








2012/10/30 10:03:13|本・読書・図書館
公的機関とデジタルデータ(電子書籍)と本と

図書館・資料館のような公的資料収蔵・活用機関では,資料のデジタル化は進めるべきだと考える。これらの施設では、多種・多量の資料(データ)が何時でも誰にでも閲覧できるような環境が必要だからだ。しかも、これらの施設でも書籍のかたちでは収蔵できないものも、これから多くなってゆくだろうから。


第一、図書館が読み物提供機関から「必要な情報を得られる機関」へと受け止め方が変わっていかなければならない。


また、これらの施設は、視覚、身体様々な障害を持つ人の利用も保障されねばならない。とすれば、拡大閲覧、読み上げ等しやすいデジタル・データはバリア・フリーとなる。この国に一時的にも在住して、生活している人がいるのだから、英語は元より、中国、韓国、ポルトガル、スペイン語圏の人々の情報取得もできる限り保証してやらなければならない。


けれども、図書館、資料館であっても、全ての資料がデジタル化することを、私は望まない。自分でも写真のネガや資料、パンフレット類をわずかなデジタル化(自炊)をやってみて、資料総体のデジタル化はコストと労力の点でもあまり意味のないことだと思う。書籍の形で収蔵できるものは、できる限りそのまま収蔵すべきだ。資料メディアがデジタル・データと二様あってもだ。


図書館の近代化というと、司書を含めて、デジタル化ばかり強調する一群の人たちがいる。そこからはまるでコンピュータが普及し始めた頃、「これにできないことはない」と言っていたのと同じ印象を受ける。この論議はつまるところ図書館という存在の否定にならないかと心配する。要するに、図書館というものは、パソコンのオペレーション端末とハードディスクのことだと勘違いされる恐れがあるのだ。どの部分をデジタル・データとして持ち、どの部分は書籍で持っていなければならないという区割りを明確にすべきだ。


個人の読書、収蔵する読み物の範囲では、デジタルデータ、すなわち電子書籍はあまり必要ではない。ただし完備した辞典、図鑑類はデジタルデータとして利用できるといい。


「蔵書一代」で張本人がはかなくなってしまった時に、蔵書が邪魔になるというのも、今やいたしかたがない。図書館も古書店も個人の蔵書を引き受けたがらないし、まめな遺族でもいれば、アマゾンに登録して売れるのを気長に待つとか、再生紙用に出すかしかない。有料でもいい、デポジット(保存)ライブラリーが普及してくれば、さらにいいのだが。


さて、私はある未亡人と約束している、2万冊の蔵書の行くえをもう何年も考えているのである。


写真:瑞垣山荘前








2012/10/28 8:28:32|甲府
甲府では珍しくないけれど・葡萄屋

甲府、いやいや山梨県内では夏から初冬にかけて臨時のブドウ屋さんが数多く開かれる。「臨時」といっても、例年、同じ場所に店開きするのだから「季節限定」とか言った方がいいかもしれない。


葡萄園の一角は当然、街角にある日突然姿を見せ、初冬まで店開きしている。県下全般ではかなりの棟数開いているだろう。地元の人には見慣れた恒例の風物詩だろうが、よそから来た人にはおそらく珍しく見えるに違いない。


プレハブ小屋や簡単な作りの離れのような建物が多いが、シーズンオフには戸〆めだ。夏の出始めのころから、戸を開け、よしずを張り、おばさんが詰めるようになる。たいていは自分のところの葡萄園から運んできたものを並べている。甲府でいえば東郊の善光寺、東光寺のブドウ園が多い。後発の穂坂だの明野だのという北杜市に続く丘陵にも点々とある。


こ々で頼むのは、遠方の親類知人に発送する、いわゆる「送り葡萄」が多い。「送り葡萄」はたいてい頼むところが決まっていて、「去年のように」といっておくと、安く量目もおまけしてくれて発送しておいてくれる。相手方にも「今年もいい葡萄だった、おいしかった」と言われるから安心していられる。垢ぬけない掛け紙も「甲州」っぽくていいな、と個人的には思っている。


自家用の葡萄をいちいち買う甲州人は少ない。自分たちが食べるのはたいていもらうのである。桃だって、スモモ、柿(枯露柿も)だってそうだ。生りのいい年には、困るほどもらうことになる。


栽培者が高齢になって、「作れない、安くても葡萄酒屋にまとめて売るのさ」というようになってしまうと頼むところを新規に探さなくてはならず、大変かつ心配である。おまけがないというのも痛い。


「甲斐八珍果」といった江戸の頃から甲州葡萄は「水菓子」「生フルーツ」としてかなり売れ、その余りを「葡萄酒」に廻して来た。甲州では「葡萄酒造り」はついでだった。飲料としての「葡萄酒」も「どぶろく」の扱いに似ていた。だから、ワイン醸造を狙いにしぼった信州上田とか北海道十勝とか後発の葡萄産地に、ワイン醸造の品質では後れを取ってしまった。最近では、山梨でもワイン造りに目標を絞った土壌づくり、葡萄育てに努力している葡萄園が増え始めた。品質的な評価も上がりつつあるようだ。後はワインと合わせる旨いもんだな。鳥もつ、おつけ団子ばかりじゃ、ご婦人がたや若い世代をひきつけられないよ。


全国的な研修会で、地元の酒を持ち寄る習わしの会があった時、私は山本周五郎が愛飲した酒蔵(中央醸造)の「周五郎のヴァン」というのを持参した。経営者の同級生へのひいきという気持ちも少しはあった。これは高価で美しい紅で、デザートワインのように甘く香気も高く、試飲希望のグラスが何処の地酒よりも続々と突き出されたのである。御披露した山本周五郎のエピソードも多少は効いたかもしれない。