新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2012/10/26 7:44:51|文学
蛇笏・龍太の親子

高浜虚子の「ホトトギス」の大正初期において、飯田蛇笏らと共に「四天王」の一人と言われた俳人の旧宅を訪ねたことがある。俳人その人はとうに亡くなっていて、結社は未亡人が継いでいた。未亡人はすっかり惚けてしまって、夫の墨書に自分の署名をしたり、自分の作に夫の落款を捺したりし、選もおかしなことになり始めていた。俳句不案内な娘が主宰を継ぐはなしもあったが続かず、俳句をやっていた娘の亭主の勤めを退かせて主宰を引き受けさせた。


虚子以降の「ホトトギス」本家からして、血族、姻戚で苦心惨憺、遮二無二結社を維持してきた。以来、「ホトトギス」の活動が、初代の時以上になったことはいまだない。


前述の話を聞いていた飯田龍太が、
「だから駄目なんだ。俳句なんて家業じゃない」
と吐き捨てるように言ったのを眼前で聞いた。紳士的で、談話は常に飄逸だった氏のあんなに激しい口吻は初めてだった。


その後、龍太の「雲母」の終刊宣言の時、真っ先に思い出したのはこのことだった。


こんなことも聴いた。


「石和の日の出タクシーじゃ『七不思議』って言ってるようですよ。立派な人が『境川へ』としょっちゅう車を頼むけれど、いったいあの田舎のおっちゃんは何で食っている人なんだろう、ってね」
「昼間から机の前でスタンド灯けていると、宅急便の人が『旦那、旦那は判子屋でゴイスけ?』って聞くんだよ」
とさもおかしそうだった。


龍太は蛇笏の


薔薇園一夫多妻の場をおもふ


の句を気にしていて、
「現実生活において、蛇笏はとても禁欲的だったと言える。そのエネルギーを『雲母』に傾注した」
という趣旨のことを言い、かつて図録にも書いたことがある。


「雲母」終刊の時、このことも思いだした。蛇笏の後「雲母」を維持した時間と意思を考えると、龍太こそ、責任感旺盛で禁欲的だったのではないか、その余滴が自らの文学生活だったのではなかったか、と。しかも、氏はそれが「余滴」であることを、常に意識し、含羞があったのではなかったか。


蛇笏に「俳句は左手の営み」という言がある。息龍太に前掲の言あり。


自らのみを、それも句作品のみを「手本」とすることを龍太はとても嫌ったし、無意味なこととした。これは自らの句碑建立を厳に嫌った蛇笏と同然だ。ところが、雲母大会などで龍太挨拶後のステージに駆け寄る門人たちは、ローマ法王の膝元に群集する信徒のようだった。


俳句には門外漢の自分だが、ある人の表現の剽窃だが、どうもこの父子の文学への取り組み方は「正一位」という気がする。この二人については悪口を言えない。


久しぶりに文学館に資料閲覧に行って、こんなことを考えた。


 








2012/10/23 8:33:35|「純喫茶」
喫茶店の客

そこに来るのは5人だ。何時行っても、5人がいつも決まった席を占めている。私の席も奥の隅と決まっているが、先客がいたことはない。いない人については、誰かが噂をしている。やれ病院だの、奥さんの看病だとか、と。


一人はもと役人かと思える最年長。よもやまばなしにも必ずどこかで仕入れた一家言を呈する。


一人は商店をやっているらしい粋な感じの年配のご婦人。にぎやかな酒焼け声で、健康と健康法を心配する話題ばかりを皆にふっている。客らしき相手に「先日のもの取り置きしてございますから」などと電話をかけているのを聴いたことがある。あまり儲かっているのでもなさそうだ。


あとの二人は何屋さんだか分からない。片方は、時折、仕事で東京へ行くようだ。誰ともなく「六〇万の仕事らしいよ」と言う。「へえ」と相槌を打つが、その額が高いのだか小さいのだか、誰にも分からない。儲け話がどうの、女がどうのといった生臭い話がもはや出るような世代でもない。


コーヒーはブレンドでも私の頼むダッチ・コーヒー(水出し)のホットでも、そこそこ美味いから、毎日でも来ようと思えば来れる。しかも今時300円。帰りに硬貨三枚を置くと申し訳なくなる。


マスターも、もう70代の後半と思える。かつて店内でやった自家焙煎は、いまはまったくやらないで、ガラスの向こうの大掛かりな装置にはひっそりと埃がたまっている。が、水へのこだわりはまだあるようで、どこかきまった湧水を汲んでくるようだ。昔見かけたように、若くてコーヒーの淹れ方の議論を吹っ掛けに来る若者もいなくなったようだ。豆を買って帰る人もみたことがない。例の客たちがいなければ、とっくの昔に閉めていただろう。というか、ここのマスターのためにも、この客たちとの大リーグだ、政界だといったよもやま話が日常になっているのかもしれない。


そうそう、トイレのドアもまともに閉まらなくて中国方式になっているが、ご婦人もどうしているのか。けれども、「直せ」とも誰も言えない。


写真:甲州市猿橋








2012/10/22 7:29:11|病を飼いならす
できることを一生懸命

私は、完治の見込みのない腎不全患者で、5年前から人工透析を受けるようになった。5年前の2月、出先で心内膜下梗塞(心筋梗塞の一種)をやってしまって、動脈のバイパス手術をし、心不全の原因が腎不全だったので人工透析を開始したのだ。現職があと1年残っていて思いあまったが、少なくとも週3日それぞれ4時間の透析を受けながら職はまっとうできないと考えたので、心残りだったが、定年1年前に退職を申し出た。


それから人工透析を続けていたのだが、心臓への負担は続いていた。昨年4月、体調不良が続き、やはり心筋梗塞の発作を起こした。2か月の間、私はまともに意識がなく、悪夢や妄想にばかり翻弄され、その間、24時間透析を繰り返し、30キロ体重を落とし、点滴をし、体中に管を通して、命を拾ってもらったようだ。そうして、心臓弁の人工弁置換手術をやった。が、その後、腸閉そくやら貧血、極端な低血圧症状などを起こし、結局、5カ月を病院で過ごした。


2か月が点滴、2カ月が流動食、固形物はのどを通らない。だ液が出ない。殆どベッドの上での生活。夏ごろは、まだ何時退院できるのかも分からず、歩くこともままならなくなった。私の人生もこれにて一巻の終わりかと頭をよぎった。


津波の一カ月後に、私も津波に襲われ、命からがら助けてもらった恰好である。


5年前から赤い手帖の「身体障害者」で「高度医療」の受益者だが、人工弁を入れてもらってから、「身体障害者」の条件は二重になった。ありがたくも申し訳ないことである。今もこれからも人工透析などの措置が行われなければ、私はひと月足らずでお陀仏になってしまうだろう。いろんな「おかげ」を被って、私は「余生」ともいえる時間を過ごしている。自分にやれるだけのことはやらねば申し訳ないと思っている。逝ってしまう時は、多分、自分の意識はないだろうから、どちらさまにも申し訳ないが、できる手立て以上はそのまま逝かせていただく。そうでない限りは、つまり動けるうちは、できることを一生懸命にしようと思う。


組織再生のiPS細胞が腎臓再生に適用されるまでには当分かかるだろう。また、医療費の患者負担の仕方が、地元でもこれまでとは違ってくるようで、これも不安な要素の一つだ。


それにしても、4時間×3日(悪化すれば4日)の人工透析は煩わしいものである。体内の血液を抜いて一旦機械の中を通して、余計な水分や老廃物を取り除いた血液を体内に戻すという作業を寝たっきりでやってもらわねばならない。これしかないのだから、と諦めてはいるが、金曜日の透析が終われば
「ああ、今週は済んだ」
と多少ほっとし、日曜日の夜には、
「また、1週間が始まる」
と思ってうんざいりする。また、なんのためにこんなことを繰り返しているのだろうと、時折はむなしくなる。


調子のいい時は、見掛け上どうということもないから、「ズクヲヤンデ(さぼって)」いるように見えるに違いない。あれほど飲んだ酒も付き合えないことはなかろうと思われているだろう。自分でも腑がいないのだが、申し訳ないことである。しなければならぬことのために、限られた時間・体力を温存しなければならないという意識はある。


さてこれから透析に行ってくる。左腕に針を二本刺しているから、殆ど身じろぎもできない4時間。腰痛がひどくならないことを願うばかりだ。








2012/10/19 7:47:46|深沢七郎
深沢七郎「甲州子守唄」を読み直す

『笛吹川』は武田三代の時代に小説の舞台を仮託して、実際は近代以降のこの国の戦塵を余すところなく描いた。終には1945年の国土の焦土化にまで至る時代の奔流を描くことが本旨だった。ことにその奔流を、軍部、政治家、天皇以上のデモーニッシュな心情を泡だて、波立てたのは、間違いなくこの国の「庶民」だった。かつて、「笛吹川論」をそう結論して、軍部、政治家、天皇制に責任を持って行って、自らの汚れた手を拭おうとした人々(新旧共産党員を含む)に私は不快感を与えた。今でも、私の指摘は当を得ていると思っているが。


『笛吹川』と『甲州子守唄』は、川村湊の指摘(解説「『時間』の流れない小説」2012.4講談社文芸文庫(写真)『甲州子守唄』)を待つまでもなく「姉妹作といってよいほど、よく似ている」。また、甲州の庶民に題材を求め、前者は万年橋の袂の「ギッチョン籠」の家が「主人公であり、後者では、鵜飼橋の袂の「オカア」の家がそれであることも近似する。


『甲州子守唄』は、小説の舞台はストレートに明治40年8月の大水害の4年後から、生糸市場の壊滅的暴落、関東大震災、山梨県の経済困難県への低下、北米移民ブーム、満州事変、日中戦争、太平洋戦争、甲府空襲から昭和20年8月15日。


この小説は、今度は「庶民」の金銭欲・物欲をテーマとしている。『笛吹川』よりもどぎつく庶民の「ねたみ」や「嫉妬」の感情である。また、智恵と。


何枚かを用いてしっかり論じなければいけないだろう。できれば、「猫町文庫」第四集に発表できればいちばんいいのだ。


藤枝静男氏などの『笛吹川』に比して『甲州子守唄』が「小説の密度がちが」い「小説全体のゆるみを気に」するなどの比較論を一つずつ検討しなければならないだろう。


七郎が面白かったというチェホフの戯曲『かもめ』から笛吹川的発想への影響はあったのかなかったのか、についても。


七郎の作品が文庫のような体裁で読めるようになってきているのは喜ばしい。できれば、「月のアペニン山」とか「揺れる家」とか「白笑」等の初期短編も手軽に読めることが望ましい。この作家の新しさ、洞察の深さが知られるだろうから。


 








2012/10/16 12:14:53|文学
丸谷才一の死

丸谷才一が逝った。87歳。


河出書房から出た『ユリシーズ』共訳(1964)を勉強のつもりで読んでから、もう48年もたッていることに気付いてびっくりした。その後の『読本』や『たった一人の反乱』など、派手ではないが、学のある作家として氏のことは畏敬していた。


先日も東京で氏の噂をして、ご贔屓だったコート・ドールの支配人などから、今でも「こってりしたものが好きだ」と聞いて、食道楽とはいえ、さすがに長命で仕事をする人は違うと感心したところだった。春樹現象など文学界の現状をどう論評するか、興味があったのに残念。


写真:コート・ドール(港区三田)