高浜虚子の「ホトトギス」の大正初期において、飯田蛇笏らと共に「四天王」の一人と言われた俳人の旧宅を訪ねたことがある。俳人その人はとうに亡くなっていて、結社は未亡人が継いでいた。未亡人はすっかり惚けてしまって、夫の墨書に自分の署名をしたり、自分の作に夫の落款を捺したりし、選もおかしなことになり始めていた。俳句不案内な娘が主宰を継ぐはなしもあったが続かず、俳句をやっていた娘の亭主の勤めを退かせて主宰を引き受けさせた。
虚子以降の「ホトトギス」本家からして、血族、姻戚で苦心惨憺、遮二無二結社を維持してきた。以来、「ホトトギス」の活動が、初代の時以上になったことはいまだない。
前述の話を聞いていた飯田龍太が、
「だから駄目なんだ。俳句なんて家業じゃない」
と吐き捨てるように言ったのを眼前で聞いた。紳士的で、談話は常に飄逸だった氏のあんなに激しい口吻は初めてだった。
その後、龍太の「雲母」の終刊宣言の時、真っ先に思い出したのはこのことだった。
こんなことも聴いた。
「石和の日の出タクシーじゃ『七不思議』って言ってるようですよ。立派な人が『境川へ』としょっちゅう車を頼むけれど、いったいあの田舎のおっちゃんは何で食っている人なんだろう、ってね」
「昼間から机の前でスタンド灯けていると、宅急便の人が『旦那、旦那は判子屋でゴイスけ?』って聞くんだよ」
とさもおかしそうだった。
龍太は蛇笏の
薔薇園一夫多妻の場をおもふ
の句を気にしていて、
「現実生活において、蛇笏はとても禁欲的だったと言える。そのエネルギーを『雲母』に傾注した」
という趣旨のことを言い、かつて図録にも書いたことがある。
「雲母」終刊の時、このことも思いだした。蛇笏の後「雲母」を維持した時間と意思を考えると、龍太こそ、責任感旺盛で禁欲的だったのではないか、その余滴が自らの文学生活だったのではなかったか、と。しかも、氏はそれが「余滴」であることを、常に意識し、含羞があったのではなかったか。
蛇笏に「俳句は左手の営み」という言がある。息龍太に前掲の言あり。
自らのみを、それも句作品のみを「手本」とすることを龍太はとても嫌ったし、無意味なこととした。これは自らの句碑建立を厳に嫌った蛇笏と同然だ。ところが、雲母大会などで龍太挨拶後のステージに駆け寄る門人たちは、ローマ法王の膝元に群集する信徒のようだった。
俳句には門外漢の自分だが、ある人の表現の剽窃だが、どうもこの父子の文学への取り組み方は「正一位」という気がする。この二人については悪口を言えない。
久しぶりに文学館に資料閲覧に行って、こんなことを考えた。