JR甲府駅北口に新県立図書館がオープンする(11月11日午後)。記念行事もある。私も一時は職務とし、建て替えを待ち望んでいた一人だから、ここまでこぎつけたことは素直にうれしいし、大いに活用したい。
だが、一方で、図書館の将来のことを考えた時、気がかりなことがあるので、この際、触れておきたい。大方はこれまでも私自身各方面で主張してきたことの繰り返しだ。地元新聞社(放送局)も、県民にとっての図書館とか、教育と図書館とかの課題を検討もせず、手もなく県の発表したプリントに従ってコンセプトを並べているので、すこしばかり「まった」と言いたいのである。図書館の良識的なユーザーも司書も感じていることなのに、そこからの発言が取り上げられることはとても少ない。
一つには、図書館に「にぎわいを創出する」という。図書館は読書、調べ物をするところだから、むしろ「静謐」こそ望ましい。図書館利用者の発案・運営で、館内の交流スペースを使って催しをするのは結構だ。が、館事態が「にぎわい」を演出しようとやっきになってはいけない。
「交流」やら「情報発信」も施設としては「結果として」起こってもいい作用だ。
県立図書館は何よりも市町村立図書館、また、学校図書館を超えた資料(図書など)の充実が望まれる。それを提供・活用してもらうための司書、郷土史担当といった専門職員も大事になる。また、県立で済まない資料請求は、県立図書館が「窓口」となって関連機関、国立国会図書館、大学図書館とネットワークでつながらなければならない。
「にぎわい」「交流」ばかり強調すると、将来にわたり、専門職員や正規職員の抑制(減員)につながりはしないか。また、入館人数とコストを見比べ「金食い虫」だと言われかねない。
山中氏のノーベル賞受賞で多少ムードが変わればいいが、目の前の役に立たないように見える、進展が極めて遅い基礎科学への手当の大事さが、また、唱えらている。図書館や美術館、ホール、体育施設等の社会教育施設もこの「基礎科学」と同じようなものだ。これらを市民、県民のインフラとして充実し、「ひと」「もの」「金」をかけてゆけば、長い時間の中で、芽を吹き、花を咲かせるかもしれない。つまりはその地域の文化性、教育力、学習力が浸透していけばのはなしだが。
新館長は県民の「読書」振興を強調する。これは実に古風な図書館感だ。子ども読書情報センターの設置は、山梨の図書館の目玉となるだろう。しかし、これもひとすじなわではいかない。本をたくさん読んでほしいと強調することは、読まれる資料(本)を優先的に所蔵するということだ。十年たっても利用があるかどうかわからぬものをなぜ収蔵するのか、そんな余裕はないはずだし無駄だろう。こういう議論も起きてくる。そこに立ちふさがるのが知的なものの殆どない県議、行政官、御用大学教授らだ。前述した「地域の文化性、教育力、学習力」ともかかわる。利用が当面なくても、県立として備えるべき資料は備えることが重要だ。読書振興を強調することが、資料収蔵予算の抑制につながってはいけない。
子ども読書活動推進。幼年期、小学校低中学年の子どもたちは、読書に関して比較的に「面倒をみてもらっている」。いい本を、聴かせてもらったり、見たりしている。ボランティアや保護者の協力もある。
問題は、本を読まなくなってしまう小学校高学年、本好きと本嫌いが両極化してしまう中学生、高校生の段階の読書指導だ。つまり、絵や音声中心の「本の鑑賞」から、ストーリーや想像力、文字中心の「読書」に次第に高めるアドバイス(教育)を、大人はできなければならない。センターもここに作用すべきだと考える。大人とは司書やボランティア、保護者、そして、教員である。
私の思うことが、全て杞憂に帰すればこれにこしたことはない。
読者諸氏よ 図書館の交流スペースを大いに予約して活用しようではないか。文化的、学術的、郷土的な利用であれば一番望ましい。そして、図書館に「こういう資料を提供してほしい」と大いに頼もうではないか。