この五年間に差し迫った命の危機が二度ほどあり、病との戦いだった。闘いと言うより、体内に飼って飼いならして、暴れださないようにしてきたし、しているというところだ。
2008年2月、出張先で心筋梗塞。命からがら夜明けを迎え、帰郷して、即入院。慢性腎炎が悪化して、高血圧症状や不整脈、肥大、雑音など心臓に負担がかかりすぎたため。腕に人工透析のためののシャントを造り、いつでも腎機能維持のための人工透析を開始できる態勢にしておいて、心臓の措置。
@なにもしない A冠動脈にステントを挿入して広げる B冠動脈ののバイパス造り
右へ行くほど、心臓の医療措置としては重くなる。左へ行くほど、突然起こる命の危険性は高まる。右寄りで、それもすぐにやる方が好いに決まっている。
時は2月。2,3月と言えばその時の職にとっては激忙期。AなりBなりの措置は年度が替わってからしたい、この間に大事な職務が目白押しだし……と訴えた。医者の言うのは、
「それじゃ命の保証はできない、死ぬぞ。常にだれかが観ているということが可能か?」
そう言われて諦めがついた。人事のことだけ決着させて、後のすべてのことは、教頭および教職員にゆだねよう。そしてできるだけはやく心臓の外科的措置をしよう。入院以来、連夜、教頭には病院生きて報告をしてもらって、すべき決済はしている。間もなくやってくる新年度も、職務代理ばかりで切り抜けることも無責任だし、不可能だ。職員の士気にもかかわる。仕事の現役生活も定年までに一年あまして退職することを申し出よう。
方針が決まった。腎臓維持のための一日4時間の人工透析も始まった。週3日が原則だ。時間内に左腕から全て血を取り出し、透析器のなかで水分を含む老廃物を濾してまた体内に戻す。これは始めれば寿命のある限り継続していかねばならない。いや、命が続くように人工透析を続けるのだ。この時から、私は新米身体障害者になった。
毎日、毎日、私は、心の中で、様々なことを棄てて行った。
身体の様々な数値が安定するのを見て、冠動脈にステントを入れる手術をすることになった。
なんでもなく始まったステント挿入だった。部分麻酔だから周囲も分かる。そのうち体中が鉛色のマグロのように思えてきて、不快感が増した。周囲の医師たちにも焦燥感が出ている。ステントがつかえてしまってどうしても挿入ができないのだ。
「気分はどうですか」と医師。
「気持ち悪いです」
「そうでしょうね」
周りに病院内のたくさんの医師が詰めかけて評定している様子だ。一定の方向が出たらしく「行きましょう」「やりましょう」「それしかない」という雰囲気だ。
家族と私本人に確認がある。
「冠動脈を移設する手術に変更しますが、いいですか?」
「それしか方法はないんでしょう」
「そうです」
「ではお願いします」
「例年術例も少なくないことですから、安心してください」
2008年の一度目の手術・入院はこのように始まった。仕事のことが気になったし、突然の退職は新聞にも載らず、周囲にはずいぶん戸惑われたらしい。申し訳なくも面目なくも思いつつ、私は「まないたの上の鯉」でいないわけにはいかなかった。
そして二度目の心筋梗塞は2011年の4月。これで心臓の人工弁の置換をやり、5カ月の入院をすることになった。大震災の惨状と流浪の人々、計画停電にショックを受けているさなかだった。この顛末は、また、書ける時に書く(だろうか)。
写真は2010年の撮影
。