ひと昔前の夏
ひと昔以上も前のことだが、どうしても行ってみたい所があった。マレーシアのマラッカと南東インドのゴアである。日数はさほど要しない、何時間かそこに佇んで、何か感じとれればいいと思っていた。その頃、私はザビエルの事績に随分関心を持ち、『ザビエルの見た日本』(ピーター・ミルワード、松本たま訳・講談社学術文庫)を皮切りに『全書簡』(平凡社・東洋文庫)やら『書翰抄』(岩波文庫)などをせっせと読んでいた。マラッカは彼が初めて日本人に遭った地であり、ゴアはその日本人を系統的に教育しようとした地であり、今もザビエルが永眠している地でもある。
当初、日本にキリスト教を宣教しようという目的は彼にはなかった。派遣したイエズス会もポルトガル国王ジョアン三世もポルトガルが船着き場ごとに植民しているインド亜大陸への宣教を命じていただけである。帰国するポルトガル商人によって彼は「日本および日本人」を認識し、現実の日本人に遭って日本への強い宣教の意志を抱くようになった。
当時「日本」はマルコ・ポーロが口述した『東方見聞録』に「黄金の国ジパング」として噂され始めたくらいで、地図にも載ってはいず、ヨーロッパでは「存在しない」も同然だった。ザビエルも「最近発見された大きな島」と表現している。
ザビエル書簡(報告書、復命書)はローマやポルトガル、インド、マラッカのイエズス会とりわけリーダーのロヨラや同志へのものが多い。ジョアン三世やマラッカの司令官に宛てたものもある。時間軸に沿って読むと、彼が「日本および日本人」にどんな第一印象を持ち、それがどう深まっていったかがよく分かる。日本宣教の志を持つに到った理由も見えて来る気がする。彼の印象はおおむね次のとおりだった。
一 日本人は、自尊心が高く、貧しさを恥とせず、不名誉こそ恥とする。現に日本は衣食住において極めて貧しい。
一 日本人は、合理的で、偶像崇拝に毒されていない。知的好奇心、陶冶性共に極めて高い。
一 一般の日本人は、道徳性が高く、他にもモラルを求め、言行の首尾一貫を求める。
一五四七年十二月、マラッカで薩摩の下級武士アンジロウに遭った時、ザビエルは日本人が皆彼のようなら、他のどの国より優れていると直観する。
四九年八月十五日、ザビエルらは鹿児島に上陸し、五一年十一月に豊後(大分)を発つまでの二年余、西日本各地で宣教に当たる。そのなかで西国大名、京の将軍家、宗教者たちへの失望はあったものの、「日本および日本人」への高い評価はますます揺るぎないものとなっていく。彼はローマのカトリック教会やイエズス会本部、また、国王への折々の報告書で日本はどこよりも宣教に値するし成果が期待できると述べる。そのために、宣教の担当者は徳性、知力、体力共に優れた者でなければならないとも。近い将来、この地の武力占拠を図るなら極めて厄介なことになるだろうと切迫した調子で述べている。
その年の夏、海峡に面するマラッカのセント・ポールの丘の教会跡に私は立っていた。言い伝えでは、ザビエルが結婚のミサを執行している時、薩摩のアンジロウを含む三人の日本人がこの丘に登って来たという。アンジロウには罪の呵責があり、我が国にまで徳性の知れ渡っていたザビエルの姿を探し求めていたのである。アンジロウは既にいくらかポルトガル語ができた。マラッカやゴアで学ばせた結果、ラテン語からカトリックの教理・典礼、教会音楽にいたるまで、彼の学習成果はめざましかった。
けれども、五一年にザビエルが豊後からインドに帰る時、パウロ・デ・サンタ・フェと呼ばれるようになっていたアンジロウは同行していない。ザビエルの帰国後、彼は国内で奮闘努力していたらしいが、いつしか行方知れずとなる。倭寇として明の官憲に捕縛処刑されたとも言われるが、確かではない。
五二年、ザビエルはインドから再びマラッカに戻り、中国への宣教を志して広東沖まで来て熱病を発し、十二月三日、孤独な最期を迎える。亡骸は人々の悲嘆と称賛のうちに、長い時間をかけて、上川島、マラッカ、ゴアへと運ばれる。
「日本および日本人」が初めてのヨーロッパ人に与えた印象が前掲のとおりであることに、私は感銘を受けたのである。ひと昔以上も前、カトリック教徒でもない私がザビエルや東西交流に関心を持ったのも、このテーマからだったことを思い出した。今、「日本および日本人」はすっかり変わってしまったのだろうか、それとも変わらぬところもあるのだろうか、そうあってほしいものだと、また、この頃、しきりに考える。
山梨県高等学校師友会「師友」(第45号、2012,11)所収
写真:セント・ポール教会址とザビエル像(マラッカ@マレーシア、1999撮)