以前、旅や出張のついでに、意識的に松尾芭蕉が杖を曳いた址を尋ねようとしていた。車を走らせ、歩き、地図を確かめ、写真を撮り、佇む。偲ぶよすがにはほど遠いが、海浜、山陰をたどった芭蕉の「思い」の一端など再現できないかと思っていた。芭蕉の紀行ものは、自分のアルバムとして、いずれ充実してゆくだろうと考えていたが、中断した。関心も近現代の文学者に移って行ったこともあった。
芭蕉の杖蹟の一つに越前の色浜がある。「おくのほそ路」の旅の終盤近く、腹具合を悪くした同行の曽羅を先に行かせて、一人旅となった芭蕉であろ。とはいえ、市街地や宿泊先などでは、彼は知人、支援者に取り巻かれている。
「おくのほそ路」で色浜について芭蕉は記す。
浜は、わづかなる海士(あま)の小家にて、わびしき法花寺あり。爰(ここ)に茶を飲み、酒をあたためて、夕ぐれのさびしさ感に堪えたり。
寂しさや須磨にかちたる浜の松
浪の間や小貝にまじる萩の塵
色浜は黄金色の稲穂の波打つのどかな海浜だった。私は戯れにいくつかの小貝を拾った。
ふとただならぬ圧迫感を感じて目を挙げると岬の尾根の向こうに宇宙基地のような原子力発電所の巨大な排気筒。始めて目の当たりにした原子力発電所だったが、私は身震いし、辺りの海浜総体が一気に汚らわしいものに映った。
1970年代の後半だったと思う。その後、出雲の阿国を訊ねたり、歌人の山川登美子の資料を借用に敦賀へは3度ほど行ったが、山の向こうの浜辺に行っていない。
敦賀原発の立地の危険性が指摘された。それにしても、無数の破砕帯とか、予想される津波の高さとか、液状化の及ぶ範囲とか……次から次へと、追っかけるようにこういう話題が公表されるのはなぜだろう。官僚はもちろんのこと、学者も含めて、あるいは隠ぺいしてみたり、公表してみたり、責任逃れのための情報操作としか思われない。