新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2012/05/27 12:58:14|文学
「白露」広瀬直人主宰のいち早い平癒を!

飯田蛇笏の「雲母」が1930ー1962。


龍太の「雲母」が1962ー1992


広瀬直人の「白露」が1992ー2012


「白露」が6月号をもって終刊した。主宰の広瀬先生は脳梗塞で療養中という。とても心配だ。


「雲母」終刊後、龍太没後、福田甲子雄没後を含む19年に及ぶ広瀬先生の獅子奮迅ぶりは本当に大変なものだったろう。急病だったようだから、状況はまだ混乱しているかのようだ。血圧に心配はあった。けれども、明朗な先生のこと、周囲に負担の重さを気付かせないところで肩にかかっていたものは多かったろう。


旧「白露」の活動継続も願うが、今は、文学館創設時以来の「指揮官」「戦友」「同志」として、心から広瀬氏の無事な平癒を第一番に願っている。








2012/05/26 19:50:39|本・読書・図書館
セレンディピティ

飯野正仁さんが自身のブログ「猫の後姿」(リンク参照)で「セレンデピティ」について書いているので、一言補足する。


ちょっと前から流行りの言葉。今ではビジネスや経営にまで使われて多少陳腐になってきた。


昔々、セレンディップと呼ばれる国があって、後のセイロン、今はスリランカというのだろうか、7人の王子様がいた。井上陽水ではないが、揃いもそろって「探し物」の下手な王子たちだった。けれども、彼らはいつも「探し物」とは別の幸いを見つけていた、というお話。


そこから、「偶然なる佳きものの発見」の意味で標題の言葉が熟した。


本屋や図書館あるいは一冊の本のブラウジング(パラパラ読み)から得られる発見、考えの思いがけない進展の意味で、私はここ10年ほどよく書いたり話したりする。


写真は甲府護国神社骨董市での「セレンディピティ」と言える。こちらはスリランカではなく、バリ島あたりのものだろう。








2012/05/22 17:14:03|MY FAVORITE THINGS
桐の花

火曜日は大学の日。季節の推移のけざやかな山ひだを見ながら車を走らせる。


「おや、藤の花か」と思って見直すと桐の花だ。淡い紫の花。この季節はそれに白い栗の花が加わる。いつぞや大山崎の美術館に行ったのもこの花々の季節だった。三笑亭といったか、タケノコづくしの美味い料理と気のよさそうな主のことを思い出した。


名バリトン=フッシャー・ディースカウが5月18日に亡くなった。大学への行き帰り、彼の40代の声で「美しき水車小屋の娘」ほかを聴く。ラストの「小川の子守唄」などノスタルジックで抒情的でとてもいい。


安らかに、安らかに!
目を閉じて!
旅人よ、疲れた旅人よ、家に帰ったのだよ。
誠実がここにある、
私のところにいさせてあげよう、
海が小川を呑みつくす時まで……


何と今にふさわしいことか。ディースカウ享年86だったという。彼自身が歌わなくなってすでに20年だ。けれども、その裾野はとてつもなく広い。








産土(うぶすな)

時間の経つのがとても速い。余暇時間が余りないからかも、そう感じるのかも知れない。去年、塀の上をさまよって、此岸に残されることになってから1年。幸いだったと思いたい。


ふと気付いたら高冷地(北杜市など)では田植え前の代掻きが始まっていた。


生き替り死に替りしてうつ田かな(村上鬼城)


買うより高い米を作っている人は多いのだろう。老若男女で新たに米作りを志す人も少なくないらしい。


「産土」という言葉が浮かんだ。


辞書には:「ウブ(産)ス」と「ナ(土・地」の結合したもの。人の生まれた土地。生地。本居。『うぶすながみ』の略」とあった(広辞苑)。


自分たちが目を向けずにいるうちに、こんなに小さな島国に林立していた原発の一個によって「うぶすな」を奪われた人たち、特に年少の子どもらのことを、とても痛い思いで思う。








越前の芭蕉杖蹟

以前、旅や出張のついでに、意識的に松尾芭蕉が杖を曳いた址を尋ねようとしていた。車を走らせ、歩き、地図を確かめ、写真を撮り、佇む。偲ぶよすがにはほど遠いが、海浜、山陰をたどった芭蕉の「思い」の一端など再現できないかと思っていた。芭蕉の紀行ものは、自分のアルバムとして、いずれ充実してゆくだろうと考えていたが、中断した。関心も近現代の文学者に移って行ったこともあった。


芭蕉の杖蹟の一つに越前の色浜がある。「おくのほそ路」の旅の終盤近く、腹具合を悪くした同行の曽羅を先に行かせて、一人旅となった芭蕉であろ。とはいえ、市街地や宿泊先などでは、彼は知人、支援者に取り巻かれている。


「おくのほそ路」で色浜について芭蕉は記す。


浜は、わづかなる海士(あま)の小家にて、わびしき法花寺あり。爰(ここ)に茶を飲み、酒をあたためて、夕ぐれのさびしさ感に堪えたり。


寂しさや須磨にかちたる浜の松


浪の間や小貝にまじる萩の塵


色浜は黄金色の稲穂の波打つのどかな海浜だった。私は戯れにいくつかの小貝を拾った。


ふとただならぬ圧迫感を感じて目を挙げると岬の尾根の向こうに宇宙基地のような原子力発電所の巨大な排気筒。始めて目の当たりにした原子力発電所だったが、私は身震いし、辺りの海浜総体が一気に汚らわしいものに映った。


1970年代の後半だったと思う。その後、出雲の阿国を訊ねたり、歌人の山川登美子の資料を借用に敦賀へは3度ほど行ったが、山の向こうの浜辺に行っていない。


敦賀原発の立地の危険性が指摘された。それにしても、無数の破砕帯とか、予想される津波の高さとか、液状化の及ぶ範囲とか……次から次へと、追っかけるようにこういう話題が公表されるのはなぜだろう。官僚はもちろんのこと、学者も含めて、あるいは隠ぺいしてみたり、公表してみたり、責任逃れのための情報操作としか思われない。