高校入試や入社試験で小論文が課されることは珍しくなくなりました。二十数年前、大学入試の小論文で痛い目にあった私にとって、「小論文」の3文字は今でも頭のどこかに常に存在しています。
大学生の時に文章の勉強をしました。とはいっても、「てにをは」を教わったわけではありません。多岐にわたる「ものの見方」を学び、「名文」といわれた文章を片端から読みあさりました。
自分の呼吸と合う文章がいくつかみつかり、そのリズムは自分の血となり肉となっているような気がします。
小論文で「水」「ふるさと」「土」などの出題がなされたとします。ここで大上段に振りかぶって、大げさな書き出しで入り、最後の結論で読む人をあっといわせるような文章を書けるでしょうか。
少なくとも小中高校生では、人生経験からいっても、そういう文章を書くことは至難の業だと思います。
私が学生時代、文章の専門家や大先輩からアドバイスされたのは、たとえば「水」という題だったら、「水(と私)」というように、「題+と私」のつもりで書くと、肩の力が抜けた読みやすい文章になるということでした。
「水」という題から「H2O」を思い浮かべる人もいるかもしれません。山梨県が生産量全国一となっているミネラルウオーターを思う人もいるでしょう。ラグビーをしている人だったら、やかんの水をかけられて息を吹き返すあの力水のシーンを思い浮かべるかもしれません。剣道をしている人だったら、あの厳しい夏合宿で飲んだ水のおいしさについて書きたい、と思うかもしれません。
良い文章の要素として@面白くてAためになりBしかも知的だ−という見方をする人がいます。私自身もこの3要素が必要だと思っています。諸外国ではスピーチにユーモアを交えることは常識となっていると聞いたこともあります。
難しい論文は最初の3行で読む気を起こさせないと、せっかくの力作も多くの人に読んでもらえないことになりかねません。
だからといって、話し言葉からの書き出し、擬音語の書き出しなども、大半がそうなってしまうと、読む側は辟易(へきえき)してしまいます。かなり以前、中学生の交通安全弁論大会で、「キキー、ガッシャーン」「ガシャーン」などの交通事故の場面の擬音語で始まる弁論が相次いだのには驚いたことがあります。
試験などで小論文が課される場合、まず「この題だったら多くの人はこう書くのではないか」と予想した上で、あえてそれを外して、自分に引き寄せて書くことも時には必要かもしれません。
ただ、出題者の意図することについて最低限のことは書かなければならないので、奇をてらったものは空回りしてしまう恐れもあります。
当たり前の事柄でも、自分だから感じられた、自分でしかできない形で表現できれば言うことはありません。そこに前向きな姿勢や、自分の体験が盛り込めれば、自分という人間を見ていただけることになります。
新聞記事が5W1Hを網羅していることは必要条件ですが、そのほかに新聞の文章は逆三角形と言って、最初の段落を読めば、その記事の大まかな内容がつかめるように工夫されています。
「起承転結」が文章の基本といわれていますが、新聞の文章と同じで、小論文の書き出しに結論がきていいと思うのです。
「AはBです。なぜならCだからです。以前、Dということがありました。そのときにBの必要性を感じたのです」は極端な例ですが、結論を先に言いきってしまい、補足をしていく。その結論の裏付けをしていく。たとえ、Bという結論が意外なものであったなら、読者は「なぜBという結論に至ったのだろう」と疑問点を抱きながら、引き込まれていくと思います。Bという結論がごく当たり前だったとしても、筆者がその結論を導き出すまでにどんな考えがあったのかを知りたいと考えながら読み進めてくれると思います。
今朝、小川忠太郎先生の言葉を集めた「刀耕清話」「剣道講話」を読み返していたら、
剣道の修行で一番邪魔になるのが、修行の始めから終わりまでついてまわるこの「私」である。仏教では「煩悩無尽」、「私」は尽きないと言っている。この「私」を去る修行は骨が折れるのである。
というお話の部分がでてきました。
「水と私」と、剣道でいう「私」の意味は大きく違いますが、同じ言葉、漢字でも、こんなに文字の持つ意味、その包含する内容の広がりは違います。
「私」を加える作業と、「私」を取り去る修行。日本語は、そして人生は実に深いものだと感じさせてくれます。
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