個人的に大変お世話になった、矍鑠(かくしゃく)とした2人の女性が相次いで亡くなり、偶然にも今日がお通夜、明日が告別式という。
1人は103歳の大往生を遂げた有泉まつさん。1909年生まれ。終戦と同時に自決した海軍大佐の有泉龍之助(ありいずみ・たつのすけ)の妻で、その後は女手一つで5人の子どもを育てた。長男は日産自動車の九州工場長まで務めた。
有泉の発祥は山梨県内の旧甲西か旧豊富、三珠、市川大門あたりではないかといわれ、山梨に縁があると言い伝わる。有泉大佐は妻に「子どもたちには剣道をさせるように」と言い残した。その子どもたちは剣道を習う余裕はなかったが、一代おいて孫の代の女性が茨城県立高校時代に剣道を始めた。そして別の孫の子ども、つまりひ孫が数年前に福島県で剣道を始めた。
まつさんとは縁あって、私が大学時代に知り合い、水戸の偕楽園にご一緒したこともある。「ひろちゃんは、龍之助にそっくり」とかわいがってくれた。何事にも厳しい明治の女性だったが、茶目っ気があり、唱歌を好み、美しい毬をつくるのを得意としていた。わが家にも飾ってある。
そしてもう一人は手沢照子先生。86歳。夫の故手沢宗信先生は山梨美術協会長も務めた方だ。
照子先生との出会いは40年前。私が小学校1年生の時、登校時のけががもとで半年間、山梨県立中央病院に入院した際、院内学級の先生として担当していただいた。当時は一日2時間くらいの授業だったと記憶しているが、懇切丁寧な密度の濃い授業で、竜王小学校に復帰した時に学力的な遅れは(たぶん)なかったと思う。
退院後も年賀状のやり取りを続けさせていただき、毎年、温かなメッセージを万年筆で書き添えてくださった。
入社してから、宗信先生が絵画の大家であることを初めて知った。そして会社の先輩や何人かの知人の仲人を務めていたことも知り、世間の狭さを肌で感じた。
11日に甲府市内で執り行われた照子先生の通夜に参列した。そこでも多くの美術関係者や喪主さんの関係者ら多くの弔問者であふれた。交友関係の幅広さを垣間見た思いだった。
どちらも夫を先に亡くして、その後に他界した。男の立場からすれば、私もこうありたい、そんな思いを強くした。
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