新聞、雑誌等に書いたもの、どっかでしゃべったこと、書き下ろし……の置き場です。 主に文学・歴史関係が多くなるはずですが、何にでも好奇心旺盛なので、どこまで脱線するか?!。 モノによっては長いのもありますが、興味のあるところから御覧下さい。
 
2012/12/24 13:52:04|艶笑譚・日本
松茸

 長屋の共同の雪隠(トイレ)で五人組を始めて、八百屋の娘をおかずにした。
 気持ちがよくなった時、我慢できずに
「あぁぁぁ、八百屋の娘、娘、娘ぇぇぇぇ」
と声を上げた。
 大きな声を聞きつけて、娘が戸を開けて、
「なんなの?」
 返事に困って、
「へ、へ、これくらいの松茸はないかい」

※五人組=五本の指で
※江戸小話『地口しなん』拙訳








2012/12/24 13:52:02|雑誌「猫町文庫」
校正おそるべし
「猫町文庫」第4集の初校ゲラが返送されつつある。
やっかいなものも少なくないが、いいものを作るためには校正は念入りにする方がいい。
ところが意外と大きな活字、新聞でいえば見出しとか、欄外とか見逃すことがある。
書き手も、校閲している自分も見落としてしまうことがあるのだ。
いくら慎重に見ても、困ったことに、ミスゼロはない。

甲府西高で新聞部の顧問をしている際、誤植1文字罰金マル円と決めて、出張校正時の生徒のパン代にしたが、それくらい見落とすものだ。
「校正おそるべし」とダジャレも言いたくなる。

学校を公認欠席して、三日間も街外れまで校正に出るのだから、生徒も楽しみだったようだ。
初校ゲラを植字工のおじさんに返して、再校が出るまで空き地でソフトボールなんかやってたな、あいつら。
再校まで見て帰って、翌日、三校、四校だ。
「親分」と生徒が呼んでいた植字工のおじさんに「一五行書き足せ」といわれて、不思議がっていると、親分が勝手に割り付けを変えていたりした。
親分にとっては、明朝体こそが正しい活字のようで、
「ゴシックばかり使いやがって」
とか、
「こんな割り付け見たことねえ。こうする方がいいら」
とか生徒を脅していたな。
けれども、生徒にラーメンをおごってくれたりもした。

親分は私にも
「先生、亀の字の本字(旧字のことだ)の書き順を知ってるけえ」
と侮るようなことを言った。
その道60年だから、貫禄だ。

のんびりした時代だった。
その印刷屋も今は廃業して、ない。

甲府一高で新聞部をやった時には、ここから独立した若い人のところでやった。ブランケット版がタブロイド版になり、活版をオフセットにしてくれないか、と言われた。

初雪も消えた。今年は雪が多い年なのだろうか。
代車に借りている車は、停めればバッテリーがあがってしまう厄介な車だ。
寒さが身にこたえる。

そうそう校正に留意しよう。







2012/12/23 16:32:53|艶笑譚・世界
家族仲

 ピークに達した時、夫が言った。
「おい、いくぞ!」
「ええ。あたしも、いくわ」
途端に、隣の部屋に寝ていた子供がむっくり起き上がると、
「ぽくもいくッ!」
と叫んで外にとび出した。

※昭和44・8・1「えろちか」「STUDY IN JOKE」(小早川博)より

故柳亭痴楽の「火事の親子」という「綴り方」に似ているな。
オチが「ボヤも一緒に行きたいな」だったっけ。
もっともこれはエロ性はなんらない。








2012/12/22 11:44:36|本・読書・図書館
小西甚一『古文の読解』

双葉ラザウオークの熊沢書店で小西甚一の『古文の読解』の文庫版(ちくま学芸文庫)を見つけてたいそう懐かしく、物好きにもいそいそ買い込んだ。使いこんでぼろぼろになったハードカバーの親版が書棚にあるのに、だ。

ネットで検索してみたら、自分同様「旧知に会ったようだ」という感慨を書きつけている人もいたが、こんな趣旨のことを言っている人もいて驚いた。予備校関係者らしい。
「この本を読んで大学受験は受からないだろう。例題の入試問題がいまさら古すぎるし、小西の文法体系は今の学校文法と違っている」

このような予備校教師だったら、名参考書と言われた佐々木高政の『英文構成法』とか小野圭の『英文解釈法』等々も、個性的で受験学力促成に適さないがゆえに、とんでもない愚著になるのだろう。

今さら何だ、当たり前だろうと言いたくなった。
自分は小西甚一のこの本で古文の受験学力がついたわけではない。が、この本で古文が好きになったことは確かだ。国語教師になった一つのきっかけでもある。
高校3年間というより、数十年の間、この本(および小西の『古文研究法』『国文法ちかみち』)を折に触れひっくり返し読み続けてきて、教師として生徒にいかに古文への興味関心を持つか、自らいかに学ぶべきかを学んできた気がする。

たとえば、古文の文法事項も次第にただのルールではなく、人物の関係性、感情の微妙さ、これらが最も込められた結果の語法だと気付き始めると、さほどの苦にならない。助詞・助動詞、活用、用例、識別、句法等を学ぶのがむしろ楽しみになってくる。

この本を生徒に薦める時にも、促成栽培のためではなく、何回も読み返す気があったら使いなさいという気持ちからだった。受験古文力だけをつけるのならそんな手間は要らぬと思ったからだ。

古文の面白さも分からせたい、受験古文力もつけたいなどと欲張っている教師がたまにいる。いや、どちらもできない教師もいるのかな。自分が面白いと思えば、生徒にも伝えたいと思う。伝えれば、遅かれ早かれ学力はついてくる。

大学入試センターはまあまあでクリヤーし、難関校の受験も突破した(高学歴な)のに、古文なんて読めない、読む気もない、いらないという詰まらない寂しい人のいかに多いことか。これは学ぶ本人のせいでもあるが、教師を含む周りの大人もいけない。

こういう事態はこと古文に限らないかもしれないような気がする。そういう輩が主に世の中を引っ張っていかないように食いとめたいものだ。








2012/12/22 11:44:19|艶笑譚・世界
産祷の若妻のふざけた言葉

 かなり馬鹿正直なフィレンツェの或る若妻が、まさに分挽しようとして、すでに相当永いあいだ、烈しい苦痛を訴えていたので、産婆はローソクを手にして、子供が今に姿を現わしはしないかと、問題の筒所を点検していた。
「もう一つの方もよく見て頂戴」
と愚直な女はいった。
「主人(たく)は時々もう一つの方でも勤めたのよ」

昭和26・1/ホッジョ・大塚幸男訳「風流道化譚」(鹿鳴社)