前の八丈太鼓の投稿でも少し触れましたが、 八丈島に流刑された人は、 身分が高い人が多く居ました。
その中でも、戦国大名として名高い、 宇喜多秀家(うきたひでいえ)が、 最も有名だと思います。
関ヶ原の合戦で秀家は、 石田三成が率いる西軍(即ち豊臣方)の、 副大将格として参戦しますが、 ご存じの通り西軍は敗れ、豊臣の世は終わりました。 その後、徳川家康が天下人となり、 江戸に幕府を開いて、江戸時代が始まるのです。
さて、戦いに敗れた秀家は薩摩に逃げますが、 その後、島津家によって、 徳川家康に引き渡される事になります。 が、家康は、秀家を殺すことは選ばず、 1606年(慶長11年)の四月に、 秀家33歳の時に、八丈への流刑を命じたのでした。
敵方の副将だった強者ですから、 処刑されても仕方ない筈ですが、 流刑にとどめたのは、 秀吉よりも、秀家の妻の豪姫の父である、 前田利家へのリスペクトであろうと、 個人的には思っていますが、 真相は分かりません。
その豪姫と秀家は、引き離されてしまうわけですが、 実は流刑後も、豪姫とは文などで、 交流はずっと続いていたのだそうです。 いわゆる密通ではありますが、 それを黙認していた家康の懐の深さを、 感じずには居られません。
ところで、島の随所に秀家の生きた証が、 今も残されている訳ですが、 サバイバル踏破の道の途中、南原千畳岩付近から、 遠い故郷を眺める様に座っている、 宇喜多秀家とその正室であった豪姫の像があります。
実は、自分が最初に島に行った時には、 秀家は一人で座っていました。 その後、秀家と豪姫の強い絆が分かって以降、 島の人たちは、最愛の豪姫を、 秀家の隣に座らせたのです。島の人々が、 どれくらい秀家をリスペクトしていたか、 非常に良く分かるエピソードですよね。
一方、秀家が島で暮した住居の後は、 南原エリアではなく、 島の中心の大賀郷エリアにあります。
以前、歴史が好きな女子の参加者が、 どうしても墓参したいとのことで、 自主活動で望みを叶えた事もありました。
秀家は、戦国一のイケメンだったとも言われて居て、 今も人気の高い戦国ヒーローですが、 豪姫を終生思いながらも、島を愛し、 島で生涯を閉じた秀家を、そっと見守っています。 そんな島の優しさで、 秀家は今も、八丈の自然と共に居る気がします。 |